約束を破って記事にしたことを問われないのはなぜなのか?

首相秘書官は更迭されて、内閣は差別禁止法案に一気に舵を切ったように見える。発言が不当で差別的ならば、オフレコ発言を記事にすることが許されるのかという点については私は疑問だ。オフレコは発言内容を記事にしないという取材者側と非取材者側の約束・了解のもとに行われるものだ。

われわれは子供に嘘をつくのは悪いことだと教えている。人との約束を守ることは信頼関係を築き上げるうえで最低限に必要とされることだからだ。それを破れば、相手を騙したことになるのが世間の常識だと思う。政治家の中には、一般社会の常識とかけ離れた非常識な人がいることは誰でも知っている。でも、記事にしない約束事は、約束した以上は、相手がどんな人でも守るのが道徳だ。犯罪者から脅されて、無理に約束をさせられたわけではないだろうに。

私は、今回の記事を書いたメディアの人たちのように、平気で自分の都合で価値判断を変えて、後ろから切り付ける人間は大嫌いだ。記事にすることを前提とするなら、正々堂々と話の内容を記事にすると告げて取材すべきではないのか? 記者の書いた記事の大きさが、その記者の評価につながる評価システムがあるから、約束を守るという最低限のマナーを破っても、ニュースにするのだ。

前回のブログで青臭い正義感と書いたが、単なる功名心かもしれない。いくらきれいごとを言っても、最後は自分の実績が優先するのだろう。かつて、取材意図と悪意を隠して話を聞きに来た記者の顔が、苦い思い出と共に浮かんできた。

世間の評価は、秘書官が悪い一色だ。確かに首相秘書官としては失格には違いない。明らかに「気持ち悪い」は差別的で、子供のいじめレベルの発言だ。しかし、記事にしないというオフレコ取材の約束を平気で破った記者の態度は囮取材のようなものであり、問われるべきだ。子供の教育のためにも。


編集部より:この記事は、医学者、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のこれでいいのか日本の医療」2023年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。