昨年10月末に首相に就任したリシ・スナク氏が今年年頭、施政演説を行い、国民に「5つの約束」を掲げた。2024年秋ごろに予定されている総選挙をにらみ、スナク政権の達成目標を知る良い機会となった。
5つの約束とは、
① インフレ率の半減
② 経済成長の実現
③ 政府債務の削減
④ 国民医療サービス(NHS)の待機リスト(waiting list)の削減
⑤ 密入国のボートを停止させること
Waiting List(待機リスト)
ここでは国民医療サービス(NHS)による医療行為を待つ患者のリストを指す。「待機リストの削減」とは、待機患者の数を減らすこと。NHSの現状を示す物差しとして、注目される。NHSイングランドによると、昨年10月、イングランド地方で約41万人が1年以上待機状態となった。新型コロナ発生前の2019年10月は1537人。
①〜③は経済及び財政状態の安定化を最優先するスナク政権ならではだ。
④ 国民医療サービス(NHS)の待機リストの削減は今まさに国民の関心事であり、⑤ 密入国のボートを停止させることは難民や移民の流入に警戒心を持つ与党・保守党らしい項目といえる。
この5つを選択したのは「国民が実現を望んでいる」ばかりか、将来の「基盤を作りたい」からと首相は説明している。「子どもや孫の世代のために」、「楽観性、希望、誇りを持てる未来」の構築を目指す。
実現の可能性は?
5つの約束はどの程度実現可能なのか。
英予算責任局(OBR)によると、今年度末のインフレ率は3.8%に下落する見込みで、昨年末の約10%からとすると大幅減少になるので、①インフレ率の半減は実現可能だ。ただ、2ケタ台のインフレ率が続いたことで生活には相当の負担があり、「暮らしが楽になった」と思うまでには時間がかかりそうだ。
②経済成長の実現については、OBRは英国が景気後退から抜け出すのは24年以降としているため、選挙の直前には実現可能かもしれない。
③政府債務の削減についてもOBRがすでに実現可能と予測しているが、ストが重なれば新たな財政出動を余儀なくされるのではないか。
④国民医療サービス(NHS)の待機リストの削減については、今まさに「NHS危機」の真っ最中。NHSイングランドによると、昨年10月時点で医療処置を待つ人は史上最多の720万人に。首相は新規に7000の病床を増やし、徐々に待ち時間を減少させると述べているが、入院後の一時的受け入れ皿となる介護施設も人手不足が深刻化している。
⑤密入国のボートを停止させることはどうか。
近年、英国で難民申請をした人の大部分はフランスから小型のゴム・ボートに乗って英国にたどり着いた人々だ。昨年1月から9月までの難民申請件数は約5万2500人(扶養家族除く、BBC調べ)で、過去20年間で最多。そのうちの約4万5000人がゴム・ボート乗船者だった。
対応策として、首相は小型ボートによる密入国を停止させ、不法入国者を迅速に退去させる新たな法律を制定すると述べた。ただ、法律ができても、英国に向かうボートの流れを止めることができるのかどうかについては疑問符が付けられている。
スナク首相の今回の演説で、経済成長につながる項目として強調されたのが「教育」だった。首相は自分が現在の地位に就くために最も重要だった要素として、高い水準の教育を挙げた。特に重視するのが数学。元財務相でもあり、数字に強い首相らしい選択である。イングランドの16~19歳の子どもたちの中で、学校で数学を勉強しているのは約半数だ。首相は数学の学習を18歳まで続けるよう提唱している。
一方、野党党首は
スナク首相の演説の翌日、最大野党・労働党のキア・スターマー党首が年頭演説を行った。「その場しのぎの政治はもうやめよう」と2010年から続く保守党政権を批判し、「中央の政治を現代に即したものに変えよう」、「地域社会に経済的権力を移そう」と呼び掛けた。
欧州連合(EU)離脱問題では残留支持派のスターマー氏だが、離脱派が掲げたスローガン「主権を取り戻そう」を解決策に変えると述べた。
政治サイト「ポリティコ」の調査によると、総選挙で労働党への投票意向を示した人は46%、保守党は26%(1月7日発表分)。あまりにも大きな差だ。来年までにスナク氏はこの差を埋められるかというと…今のところ、可能性は低い。
横やり続く
何とか自分らしい政権運営を行うとするスナク首相の足を引っ張るのが、辞めたばかりの元首相たちだ。
十分な財源を示さずに大幅減税政策を発表し、市場に大きな混乱を招いたのが、前任者のリズ・トラス氏だった。就任後に四十数日で辞任したというのは、前代未聞だ。(「トラス新政権大型減税案で英国の評判ガタ落ち – 金融市場の大混乱、支持率急落、党の内紛も」)
そんなトラス氏は自分が招いた経済への打撃の責任をしっかりと受け止めたかと言えば、そうではないようだ。保守党支持の新聞「テレグラフ」に減税政策を正当化する記事を寄稿(「減税実行の『現実的な機会』与えられなかった」)した上に、親日派が多いと言われる日本に向かい、国際会議「人権外交フォーラム」に出席して、国際舞台に再デビュー。首相の前職外相時代を思わせるような「中国脅威論」を繰り返した。もう外相でも、首相でもないのだが。しかも、大騒ぎの辞任後からまだ3か月ぐらいしか経っていない。
一方、トラス氏の前のボリス・ジョンソン元首相も節操がない。ジョンソン政権では財務相だったのが、スナク現首相である。
英国のEUからの離脱の際に英領北アイルランドの扱いをどうするかで英国とEU側はもめにもめた。
アイルランド島の北は英領だが、南はアイルランド共和国で、こちらの方はEU加盟国なのだ。従って、アイルランド島は非EU加盟地域と加盟地域に分かれる。
そこで、北と南の往来に新たな障壁を付けるべきか、いや、付けてしまうと過去の「北アイルランド紛争」を想起させる、北アイルランドの住民の一部は障壁ができると「英国の一部ではなくなるのでいやだ」という帰属感の問題などがあって、交渉が難航した。
そこで、ジョンソン政権時代に妥協策として決めたのが「北アイルランド議定書」。
ところがこれがうまくいっておらず、「見直しをしよう」ということになって、ここ数日の間にEU側とスナク首相側が合意に大きく近づいたところだった。
すると、ジョンソン氏が出てきた。「自分が主導した取り決めを捨てるな!」というメッセージである。ジョンソン氏は保守党内右派の一部に強いアピール力を持っているので、無視できない。
トラス氏やジョンソン氏の動きを見て、筆者は「もう保守党はダメだな」と思う。
党内の分裂、政治プロセスを無視する政治家たち
なぜ「もうダメだな」と思うのか。
それは、党内が少なくとも3つに分裂しているからだ。党の中に様々な異なる意見が出ることはあるだろう。むしろ、自然だ。
しかし、異なる意見を表明し、現政権が進行中の事柄に大きな影響を与える行為を元首相らが主導していることが問題だ。「一体、保守党は何を目指すのか」が不透明になる。
また、トラス氏も、ジョンソン氏も世論や保守党内の選挙によって党首となり、首相となった。辞任も同様に世論、党内選挙、市場の声などが反映されたものだ。
こうした経緯を尊重しない、無視するということは、「あなたはもう政治の第一線にはいませんよ」というメッセージを受け取ることを拒否することを意味する。
2010年から続く保守党政権は今、末期にいるのだと思う。
(在英日本人向け雑誌「英国ニュースダイジェスト」に掲載された、筆者コラム「英国メディアを読み解く」に補足しました。)
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2023年2月20日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。