新・新興宗教時代の到来⑤

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神仏を作り出したのは神仏ではなく、人間

旧統一協会問題を発端として、新興宗教の在り方が問われ、遂には法改正に至るなど、日本では新興宗教隆盛の時代は終焉したと言っていいだろう。

幸福の科学の創設者である大川隆法氏は、大した神様だか仏様だったらしいが、その威光も虚しく、風邪を拗らせて亡くなったらしいと、大川隆法氏の長男、大川宏洋氏は言う。

その真偽のほどにはさしたる興味は無いが、問題は、あれほど信者に対して自分の凄さを誇っていた大川隆法氏も、その宗教的意味合いは傍に置いて、人間的には山あり谷ありの人生だったように感じる。

信仰的な意味合いについては、宗教団体それぞれに教理があり教えがあり伝承があって、団体内部でしか通用しない論理が存在する。それを事実であるかのように盲信するからこそ宗教団体は宗教団体として存在し得る。

ではその霊験あらたかな教祖サマとして通用するのは、あくまでもその団体内部のことであって、外部の人間は起きている事実で判断するしかない。その意味で、既に教祖と袂を分かち、団体とも縁を切っている大川宏洋氏は、大川隆法氏を身近で見てきたが故に辛辣な大川隆法評を持っているし、その言葉には真実性があるように思える。

冷静な目線で見れば、霊的なステージなりが高い筈の教祖サマが、たかが風邪を拗らせたくらいでその命を落とすとは考えにくいが、教団としてはそうは発表できないので、教団内部の分裂や団体の衰退を防止する意味でも、何事かの理屈を生み出すのだ。

これは幸福の科学に限ったことではなく、名だたる新興宗教は全てそうだ。

戦後に興隆した新興宗教の全てがそうなのだ。

教祖がどうして求心力を持つかと言うと、前回の拙稿でも触れたように、自己の救済を求める信徒に対して形而上的な目線で形而上的な、証明不可能な教えと称する言葉を発し、救われたいと願う人の感性を刺激する能力があるからだ。別言すればカリスマ性と言ってもいい。

人間は他者を判断する基準は、自己の中にのみ存在する。自分より凄い人だと感じれば、それは凄い人になるのだ。教祖だけが例外ではなく、政治家だろうとスポーツ選手だろうと関係ない。自分より凄い人だと思えるからそれは自分にとって凄い人になるのだ。

新興宗教のほぼ全てが、この手法をとっていると言っても過言ではないと思う。

だから宗教に熱心になればなるほど、原理主義化する。教条的になり他人の意見を聞こうとしなくなる。その先にあるのがISISの自爆テロだったりするのだ。極論だと言う人もいるだろうが、実は案外、そうでもない。日本で言えばオウム真理教のテロ事件もそうだし、エホバの証人の輸血拒否による死亡事件や、旧統一教会による家庭崩壊なども根本的には同じことだ。しかも、教条的な原理主義者ほどその教団内で寵愛されたり評価される傾向が高い。

新興宗教に限らず、如何なる団体も組織はピラミッド方式になっている。

本人たちは違うと言うだろうが、客観的に見れば同じだ。共産党の組織もそうだ。労働者は平等などと、言ってみるだけのことで、実際には権力構造、特権階級が存在し、常に三角形の底辺の人々がこき使われている。

宗教団体はその最たるもので、新興宗教の信者を生み出しているのは、ピラミッドの上の人ではなく、一番底辺にいる人たちだ。この人たちが、善かれと信じて大真面目に布教活動をするから厄介なのだし、しかもそうなるように洗脳するのが宗教団体というものだなのだ。

ではその大元の目的とはなんだろう?それは、金集め以外の何者でもない。

それ以上でもそれ以下でもないと言ってもいい。

名だたる宗教団体の本山と言われる場所には豪奢な建造物が建立されている。ただ講話を聞くだけなら、晴れた日に広い空き地で良いではないか?どうして、数百億もかかるような建物が必要になるのだろう?それは、自分たちの力の誇示に他ならない。そしてそれこそが教祖、教主と呼ばれる人たちの力の誇示に他ならないのだ。それが権威となり、信者に畏怖の念を植え付ける洗脳装置となる。

客観的に見れば、所詮はそれだけのものなのだが、少しでも「この宗教、この教祖に救われた」という感情が芽生えれば、人はその恩に報いようとする。これは物凄く単純な人の心理なのだ。ここを理解していない人が本当に多い。

礼はいらない、自分たちの活動はボランティアであると大言する団体の99.99%は、その先に別の目的を持っている。人はタダで誰かから施しを受けることをよしとしない。無意識のうちに、何かお礼をしなければいけないという心理になるものだ。特に、キリスト教文化が根付いていない日本ではそうだ。誰かに何かをしてもらうことに慣れていない。

善行は日本人の美徳の一つで、行動する側は純粋にその人の為を思って行うが、その善行を受けた人は、受けた恩の分だけお返しをしようとする。新興宗教が布教活動を行う行動原理の根本が、この人間心理に立脚している。

町内活動にしても学校のPTA活動にしても、明るくて前向きで誰とでも平等に接する出来すぎだと思われる人の中には、新興宗教の信者であるケースが非常に多い。

特段、信徒の勧誘を行わなくても、人格者であれば友人はすぐに出来る。それが新興宗教に入る導入部分だ。

大学のサークル等でも、宗教の本性を隠してボランティア活動と称して信徒の獲得を行なっている宗教団体はたくさん、ある。

中には創価学会のように、社長以下、社員全員が創価学会員という企業もある。

昭和62年当時の統計では、1億2千万人の日本で宗教団体の信徒数の総計は実に4億人に上る。死亡者や脱会者の数を入れないから、各宗教とも信者数は常に増加しかしない。だから、1億2千万人の人口に対して、宗教団体信者総数が4億人という変なことが起きるのだ。

国会議員や地方議員が、幾つもの宗教団体の信者になっていることなど当たり前であり、そのような宗教団体は議員の集票マシーンでしかない。公約が正しいとか間違っているかなど関係ない。自分たち団体の偉い人が言うから、ただそれに従っているだけの話だ。

端的に言えば、神仏はあると神仏が言ってるのではなく人間が言ってるのであり、それはつまり神仏とは人間が作り出したものであることを意味する。

以降、

・信仰心の発露の源とは何か?
・神仏が人間に頼る時代の到来と新興宗教の実態

続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。

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