「若いうちに遊んどけ」の本当の意味

黒坂岳央です。

「若いうちに遊んどけ」という誰もが知る言葉がある。ご多分に漏れず、筆者も若い頃にこの言葉をいろんな人から言われてきた。

意味合いは人によってかなり違った。「社会人になると忙しくて遊ぶ暇がなくなる」という人もいたし、「年をとると好奇心やエネルギーがなくなるから」という人もいた。解釈は人によって分かれる言葉なのかもしれない。

筆者はこの言葉の真意を次のように理解した。それは「遊ばずに年をとると精神年齢が止まるから」である。

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「面白さ」を感じる段階

若い頃は何を見ても面白い。自分の子供は何を話しても何をやっても本当によく笑う。子供は笑いのハードルがとても低く、「うんこ!」というだけでゲラゲラ笑う。

しかし、中学生や高校生になると小学生が笑うことをしても笑わなくなり、トークはより高度なオチを期待するようになったり、アクティビティも鬼ごっこではなくよりアクロバットな遊びを求めるようになっていく。友達付き合いの中で感じる繋がりの深さも、より深い共感性を求めるようになっていく。そうやっていくつものフィルターを通り抜けて尚も、一緒にいたいと思えるような友人だけが長く続く。

人間はそうやっていくつもの慣れを重ねる中で成長していき、そして社会的年齢の進歩とともに、精神年齢も前へと進んでいくのだ。

遊ばずに大人になると…

しかし、青春時代や20代、30代前半までまったく遊ばず、勉強と仕事だけをして年齢を重ねて大人になると厄介事になる場合がある(全部とは言わない)。社会的な記号としての年齢と精神的な年齢に大きな差がついて「老けた大学生」のような大人になってしまうのだ。

たとえば多浪の末に医学部や司法試験に挫折した後、40代前後で社会人になってしまった。夢追バンドマンで、社会人になったのが圧倒的に遅れてしまった人でそうなったケースを見てきた。行動や服装はとにかく若く、まるで10代か20代前半のようでキャピキャピしているのだが、実年齢はいい大人というものである。

そしていざ、遅れた青春を取り戻そうとしてもそのハードルは非常に高い。まず遊びに付き合ってくれる人を見つけるのに苦労する。カラオケでオールしたり、食べ放題で騒いだりということを楽しい、面白いと感じる感性の中年にあわせて遊んでくれる人はかなり少数派だ。しかし、そうした遊びに飽きなければ次の段階の娯楽はやってこない。

筆者にとっては創作活動は娯楽そのものなのだが、ここに来るまではいくつもの段階を経たという感覚がある。漫画やアニメ、ゲームに徹底的にハマりまくったり、友達と騒いだり弾丸ツアーへ行ったりとお金と時間をかけまくって全力で遊んだが、ある時こうした受動的な娯楽を急に楽しいと思えない飽きがやってきた。

今でも漫画とゲームは好きだが、それでも家事育児を除く時間のほとんどは仕事を通じた創作活動をやっている。理由は今の自分にとってはこれが受動的な娯楽よりも楽しいと感じるからだ。ゲームや漫画は仕事に疲れた気分転換でやるという感じである。

だが、もしも受動的な娯楽を飽きるまでやらなければ、絶対に創作活動までたどり着けなかったという感覚は強くある。つまり、遊ばずに大人になると遊びに付き合ってくれる相手に苦労する中で、受動的娯楽を孤独で楽しむことになってしまう可能性があるのだ。それは孤独感があると想像できる。だから若い頃に飽き飽きするまで目一杯遊びまくり、さっさと次のステージへと移動した方が良いと思うのだ。

「遊ぶことは人生を楽しむために必要」という提案がしばしばなされるが、自分にとってみると「飽きてしまうことが時間の問題になってしまうと、人生で楽しいことがなくなってしまう。そうならないためにも若い遊びは若いうちに飽きるまでやりきって、次のステージへと移動した方がいい」という感覚がある。

なかなか言語化や共感を得るのは難しい主張かもしれないが、人生とはつまるところ、究極的な飽きとの戦いという本質からは逃れられないため、楽しく生きるためにはドライだが必要な考え方なのかもしれない。

 

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