放送法第4条と電波独占②:メディア、行政、政治の思惑と論点

Vertigo3d/iStock

前回は、いわゆる「小西文書」に関する顛末について、報道は「政治的茶番」として取り上げるのみで、本質的な議論は提起されない現状を述べた。

(前回:放送法第4条と電波独占①:小西事案の本質的論点

むしろ本件の核は「電波独占の撤廃の是非」にあるのだが、「今回も」その議論が国民的なうねりとはならないだろう。なぜか?それは、メディア、行政、政治が、それぞれの思惑で「電波独占の撤廃」を望んでいないからだ。

メディア、行政、政治の思惑

メディアが本質論から徹頭徹尾逃げ回っているのは、単純に「電波独占している特権の側にいる」からにすぎない。多チャンネル化したら自分たちのビジネスが成り立たなくなる。故に、「多チャンネル化して放送法第4条を撤廃しよう」なんて口が裂けてもいわない。

しかし、おそらく今後5年程度のタイムスパンで、そもそも8チャンネル独占というビジネスモデルそのものが盛大に崩れ去るだろう。しかし、それは本論ではないので別の機会に譲りたい。

次に行政だが、これも「放送法第4条」があるがゆえに「監督省庁」としてメディアに君臨することができる現状を手放したくはない。行政とは、規制あるところに権益あり、という原則のもと仕事をする組織だからだ。

政治について言えば、寡占的メディアが持つ「国民への影響力」に対して「モノが言える」状態を永続させたいという思惑がある。つまり、メディアが8チャンネルしかないならば、いうことを聞かない局に対して「おいコラ」と言って頭を抑えることができる。良きつけ悪しきにつけ、放送法第4条もその文脈で武器として使えるだろう。しかし、200チャンネル、あるいはネットの無限チャンネルが相手となると、政治的影響力を行使することは難しくなる。

メディア、行政、政治が一堂に会するということはないが、「まぁそういうことで皆さん、今回は馬鹿らしい政治的な茶番劇ということで」という暗黙の大団円があったかのような状態が現在だ。

公平原則の撤廃と分断

ここまでは、放送法第4条に関する本質的議論がいっこうに進まない斥力の存在を述べた。最後に、「されど残る論点」についてごく簡単に述べたい。

池田信夫氏がいうとおり、プラチナバンドを開放して200チャンネル放送とし、あわせて放送法第4条を撤廃しようとしたとき、問題となるポイントはあるだろうか?

「放送法第4条の撤廃の問題」として説得力のあるのは、国内世論の「分断」あるいは「断絶」の深まりとなる可能性についてだ。

その前例として度々引用されるのが、アメリカで87年に「表現の自由」を担保するために撤廃された「公平原則」と、その後国内で深まった政治的分断だ。

「公平原則」廃止の米、偏向報道が増加

【放送制度改革】「公平原則」廃止の米、偏向報道が増加
 米国では1949年に、米連邦通信委員会(FCC)がテレビとラジオに対し、放送の公平性を担保するため「公平原則」(フェアネス・ドクトリン)を導入した。公共的に…

上記はごく短く本件をまとめている記事なので、ぜひご一読いただきたい。

本件は、少なくともアメリカというサンプルがある。そうであるがゆえに

  • 公平原則の撤廃と国内世論の分断は、本当に相関関係があるのか
  • 仮に相関が認められた場合、その相関関係は、日本でも同様に働く力学なのか
  • 仮に相関が認められた場合、公平原則の撤廃をした場合でも分断を回避できる現代的な方法はないのか
  • 公平原則の撤廃をしないとした場合、将来確実に訪れる「多チャンネル・多メディア化時代」に即した公平原則の在り方とはどのようなものか

などを、アメリカの事例をもとに冷静に研究・議論することができるはずだ。

少なくとも以上のような議論を深めることは、小西議員の茶番を眺めているよりはるかに有意義であることは確かだろう。