建設的な考察は総合化に向かう

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前稿で紹介した、石橋克彦著「リニア新幹線と南海トラフ巨大地震」(集英社新書1071G)と言う本は、多くの国民にとって有用と思える内容を含んでいるので、さらに詳しく紹介したい。

筆者は、この本から、単にリニア新幹線の危険性や地震防災の心得だけでなく、この日本国の未来をどう展望するかについての、大局的な洞察の大切さを教えられた気がするからである。また、一つのことを建設的に突き詰めて行くにつれて、事物や考えは総合化されて体系的にまとまって行く実例としても読める。

改めて紹介すると、この本は2部構成で、第1部は「リニアは地震に耐えられない」であり、4章からなっている。

第1章は「リニア新幹線とは何か」で、基本的な経緯の説明。第2章は「地震危険性を検討しなかったリニア計画」、第3章は「活断層が動けばリニアは壊滅する」。前稿では主に、これらの章の内容を敷衍して書いた。特に、活断層が動くとトンネルなどひとたまりもないことは、過去に丹那トンネルの実例があったので詳しく触れた。

第4章は「南海トラフ巨大地震から復旧できるか」。前稿では字数の関係もあり詳しく書けなかったが、この章の内容もかなり具体的かつ戦慄的な、迫真の予測描写である。この章を読むと、実際問題、開通後、時速500 kmで走行中の列車が大深度の長大トンネル通過中に、巨大地震が来たらどうするんだろう・・と絶望的な気分に陥る。

無事に止まるのがそもそも難しいが、無事に止まっても、長大なトンネル内(延長20km以上のトンネルだけでも4ヶ所ある)で、電気が切れ設備が壊れたら連絡も取れず、真っ暗な中で脱出も救出も極度に困難であろうことは、容易に予想できる。しかも南アルプス山中のトンネルだと、出られても人里離れた山奥である。

この種の大惨事は、実際に起きるまで現実の事態とは想像もできない人が多いだろう(「まさか、そんなことが起こるはずない・・」)。福島の原発事故とて、実際に起きるまで多くの人が、本当に起きるとは思ってもいなかった。

しかし一方、これまでの歴史記録や地震痕跡を見る限り、100〜150年周期で南海トラフ巨大地震が襲ってくることはほぼ確実である。地震を機に、それまで知られていなかった活断層が動くこともあり得るだろう。トンネルその他、人工物はこれらの天災に、ほとんど無力である。我々は、その種の想像力を持つ必要がある。

続く第2部は「ポストコロナのリニアは時代錯誤」と題されており、これも4つの章からなる。これらはもう少し詳しく紹介する。最初の第5章は「地球温暖化防止に逆行するリニア新幹線」。要するに、リニア新幹線は消費電力が大きく、化石燃料の大量消費とCO2排出を抑えるべき今後の日本では使えない(使うべきでない)と主張している。

なお、CO2と地球温暖化に関して、本書の著者は「人間のCO2排出だけで気温が厳密に決定されることには疑問を感じる」と、断りを入れている。科学者らしい慎重な態度と言うべきだろう。

本書の表7には、リニア中央新幹線・在来型新幹線・航空機の、消費電力・CO2排出量などの比較が載っている。これらはエネルギー消費量の目安と見て良い。

それによれば、1座席当たりのCO2排出量で見ると在来新幹線を1としてリニアは約6、航空機は約11と言う値になっている。1人1km当りの消費電力量で見ても、在来新幹線は28であるのに対し、リニアは99で、約3.5倍も大きい。最高速度は約2倍なので、効率はかなり悪いことになる。実際に営業運転となれば、東京・大阪間で原発1基分程度の100万kWの電力が必要となる事実は重い。

第6章は「ポストコロナの日本を『超広域複合大震災』が襲う」である。本書の著者は、専門の地震学の立場から、今の我々が日本史上数えるほどしかない「大地動乱の時代」の只中にあることを教えている。

その始まりは1853年から3年続きで起きた小田原地震、安政東海地震、安政江戸地震である。その70年後の1923年に大正関東地震があり、1995年に阪神・淡路大震災、2011年東日本大震災、2016年熊本地震と続く。その終幕として、南海トラフ巨大地震が来るはずだと言う。それが済めば、また100〜150年程度、比較的安穏な時代が来るだろう。

何を大げさな・・と思う方がおられるかも知れないが、これは「オオカミ少年」の言葉ではない。記録された範囲内でも一定周期で巨大地震が襲来してきた歴史的事実があり、それを裏付けるメカニズムとして、刻一刻動き続ける数枚の地下プレート運動が観測されている以上、地震はいつか確実に来る。ただし、それがいつ起こるか、正確に予測することが現時点では出来ていないだけである。

それに備えるために、東京一極集中を抜本的に是正し、分散型国土の創生に着手すべきだと言うのが、本書の著者石橋博士の主張である。なぜなら、前回のトラフ地震が1850年代、つまり幕末の頃であり、近現代日本で南海トラフ巨大地震が襲来するのは初めてだからである。

東京は、関東大震災と太平洋戦争でそれぞれ廃墟と化したが、そのたびに再興してきた。しかし当時と現在では、人口密度や建物の集積度が格段に違う。高層建築が増え、地下街も広大化し、地下鉄網も大深度にまで及んでいる(新しい地下鉄ほど深い)。ひとたび巨大地震に襲われたら、被害の深刻さは過去と比べ物にならないはずだ。

特に、現代の都市生活は電気に支えられている。停電になったら水も止まり、生活インフラは壊滅状態になるし、交通にも多大の支障が出る。まず困るのは、水・食料とトイレだろう。人間は、飲食して排泄する生き物であるから。最低、3日分程度の備えはあった方が良い。節約して使えば一週間程度はもつかも知れない。

その他、詳細は省くが、本書では現代社会の状況が震災を増幅する有様と、膨大な被災地の救済が困難になる様子が詳しく述べられている。それらを軽減するには、東京一極集中を解消すべく努力する必要があると。むろん、関西の大阪圏もであるが。

第7章は「『超広域大震災』にどう備えるか」で、ポストコロナの日本社会のあり方を論じている。本書の著者は「それを一言で言えば、経済成長至上主義のもとで集中・大規模・効率・高速などをよしとしてきた従来の価値観をあらため、分散・小規模・余裕(ゆとり)・ゆったりなどを社会の基本に据えるべきだと思う。」と述べている。まったく、同感である。

さらに「日本を地震に強い社会に変革するために、第一次産業の復権と分散型国土の創出、成長信仰からの脱却と国際分業・自由貿易至上主義の是正、過度の観光立国の見直しなどを訴えた」とある。本書には、これらの具体的な内容も詳しく述べられている。

産業は、単に経済効率優先の国際分業主義に頼らず、非常時に生活に必須となる「基礎的産業」を平時も一定レベルで健全に維持すべきであると。これらは実は、筆者もまた長年、環境問題やエネルギー政策を研究し考える過程で思ってきたことと、ほぼ全部同じなのである。

石橋博士は、地震学の専門の立場から、地震災害に強い社会の姿を構想する過程で上記の考えに達したようだが、環境・エネルギー関連を追究してきた筆者も、同じ結論に行き着く。

もう少し踏み込むならば、環境・エネルギー問題関連を追究してきた結果、あるべき姿に障壁として立ち塞がるのは、種々の新自由主義的政策や考え方であり、経済成長至上主義のもとで集中・大規模・効率・高速などを追求してきた価値観そのものなので、これを改善して持続可能な社会を構想するとすれば、分散・小規模・余裕(ゆとり)・ゆったりなどを社会の基本に据えるしかないと考えるのである。経済についてはこれまで論じてこなかったが、詳しくは後日、続編を書きたい。

この章にはさらに「人・職業の再配置と『労働者協同組合』への期待」と題する興味深い一節がある。そこには、現在の経済学に対する鋭い批判がある。一例として「自由貿易論議では第一次産業もビジネスとしか見ないが、大地や海原の恵みを収穫する農林水産業は、その場所に生きることと一体である。」という文章がある。

筆者は、この文を非常に美しいと思う。科学・技術が進歩すれば自然も環境も何でも征服出来ると思うような人間には、このような文章は書けない。また「経済学ではしばしば、労働の人間性が無視されている点が納得できない」ともある。この点にも筆者は深く共感を覚える。

そして最後の第8章が「リニア中央新幹線の再考を」となるのは、必然の帰結である。その根拠は、これまで書かれてきたことと同じなので繰り返さない。もう一つ印象的な文章を引用しておこう。

リニア計画は多くの点で原発とよく似ている。すなわち、国策民営であり、御用学者からなる審議会の杜撰な審査でゴーサインが出され、大手マスメディアが推進側に取り込まれていて真実を伝えず、専門家の批判も弱く、推進側が情報を隠して安全神話をふりまき、したがって一般市民は「夢の超特急」というイメージしか与えられず(中略)、事業者(JR東海)が住民軽視で強引に事業を進めている。

そして「あとがき」にも「今は、人間にはやってよいことと、やってはいけないことがあると思う。」という、鋭い文章がある。

以上、駆け足の紹介になったが、まとめとして、本書は単に地震防災の本と言うよりも、日本の科学技術政策論、あるいは文明論としても読める貴重な書籍である。