黒田東彦氏の10年、2%の物価上昇はなぜ達成しなかったか?

日本の物価が上がらないことは日本経済再生に於いて最大の課題でした。80年代までの好景気から突如別の思想にマインドコントールされたのではないかと思うほど大転換となった日本人の保守的消費性向は「家計の縛り」が生み出した心理的影響も大きかったのではないでしょうか?

2000年代初頭、あるメガバンク社員が「小遣いでランチを賄わねばならないので500円ランチが限界です」「ビールは会社の飲み会の時だけであとは安い発泡酒です」と。なぜですか、と聞けば「バブル期に買った家のローンが重くのしかかっている」というのが答えでした。多くのサラリーマンがバブルの頃に購入した住宅ローンに対してその返済は金利こそ下がれども元本が減るわけではないし、完済したところで住宅の価値は半分以下に下がりました。つまり、多くのサラリーマンがせっせと10年から20数年で返済したローンは無価値に近かったとも言えます。どぶに捨てたのです。

この無為に近い最終消費者の経済行動は人々のマインドを非常に暗くしたと思います。「たまには社外の人ともお付き合いを」と言っても安い発泡酒しか飲めない方々にとって金がかかる人付き合いは難しい要求です。つまり、より閉鎖的社会を作り上げたとも言えそうです。

一方で住宅ローンを持たない若い層、2000年に30歳前後の1970年頃に生まれた人たちは社会の中で背伸びを始めます。MBAを取って自分を高めるという動きもありました。私の見る限り、彼らは優秀であったがゆえに大企業ではなく、起業家としての道を歩みます。これが日本の株式市場においてIPOブームとなり、雨後の筍のようにカタカナ社名が生まれた背景です。

となればビジネス環境はバッサリ2つに分かれます。1つが、従来の大企業、もう1が新興企業ですが、そこで相互の融合性がなかなか生まれなかったと思います。経済の主流はそれでも大企業であり、保守的思想が君臨し、海外ダメ、投資は石橋を叩き壊してから「やっぱりやらなくてよかった」とやらない理由を正当化させました。

日本のデフレの背景は私が見る限り、この社会的背景が大きかったのではないかと思います。また、90年代から2000年代初頭まで倒産企業がズルズルと底なし沼のように出てきたことも悪影響を及ぼしました。「うちの会社も危ないのではないか?」と。私が勤めたゼネコンが倒産したのは2002年です。バブル崩壊後、12年間もよく持ちこたえたな、と思うでしょう。一言で言えば独房に押し込まれもがき苦しんで最後、ギロチンでバッサリ、というのが内部を知る者から見た地獄絵です。

黒田氏が2013年に登場した時、異次元にバズーカ、更には金融緩和の方法はいくらでもある、と豪語し、市場を驚かせるようなテクニックを見せつけました。ただ、その黒田氏の10年について評価は割と低い、というのが日経のボイスです。その評価をしたのが金融の専門家で100点満点で平均52点、点数の範囲は80点から10点まで散らばった(日経)と言うのですから厳しい結果です。ただ、高橋洋一氏などは日経をぼろくそに言っていて黒田氏に対して評価をしています。立ち位置の問題でしょう。私は以前にも申し上げましたが黒田氏は1期5年で辞めるべきだったと思います。

黒田総裁 NHKより

個人的には日銀がテクニック論に走る一方、本質的な日本の体質改善に非常に時間がかかっていた、よっていくら金利を下げても意味はなかったのではないかと思っています。つまり、労働者というプレーヤーが労働市場において総入れ替えになるまで改善できなかったのです。いや、もしかしたらお亡くなりになるまで無理なのかもしれません。つまり日銀が2%のインフレを生み出す魔法使いではなかったと考えています。

2000年代初頭でしたか、バブル待望論が出たことがあります。安くなった不動産価格を持ち直させることで個人の財の潜在価値を引き上げるのです。私はそれが出来ればよかったのだと何度か意見したと思います。事実、黒田氏が2013年に就任以降、株価がうなぎ登りになり、高齢者が持っていてた塩漬け株が売却できて、高級時計などが飛ぶように売れた時期がありました。つまり、一定のバブルは資産の流動化が生まれ、経済をより動かせるのです。しかし、政府はこれを非常に恐れたのです。その恐れが回復力を削いだと私は考えます。

まとめると黒田氏は10年間、もがいた、そして2%のインフレを達成するために何か方法があるだろうとドラえもんのポケットの如く、様々な手法を披露したけれどそれは役に立たなかったのだと。企業は損失をバッサリ切り落とすことができます。が、個人は破産しない限りそれは出来ない、そしてほとんどの人は個人破産を選べなかったのです。これはアメリカの2007年の住宅バブル崩壊の際に破産者が続々出たのとの違いです。何故か、と言えば日本には罰点文化があり、一度ついた罰点は一生背負うような仕組みだからです。

日銀うんうんというけれど実際には極めて深い話で、日本人論まで引っ張り出さないとこの話は出来ないのだろうと思います。黒田氏に於かれましては68歳から78歳という高い年齢にもかかわらず、ぶれない政策で走り続けました。日銀総裁としての際立つ歴史であったと思います。ご苦労様でした。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年4月11日の記事より転載させていただきました。