元NHKの岩田明子さんが月刊文藝春秋に連載している「安倍晋三秘録」に、習近平と安倍元首相の交流について面白いエピソードが出ている。
それによると、習近平は首席就任以前には、本場所を毎日、録画で見ていたそうで、「ウラジオストクの東方経済フォーラムで、大相撲で活躍した朝青龍さんにお会いしました。大柄な人が歩いており、『なんだか見たことある人だ』と思っていたら、朝青龍さんだったのです」とか安倍氏にいっていたそうだ。
また、「反腐敗運動」について、「反腐敗活動は人の体がウィルスを追い出すように、政治家としての務めだと思っています」「共産党による一党支配の体制では、反対する党がいません。反腐敗活動は医者が自分の身体にメスを入れるようなもので、その分、苦労も多い」といっていたそうだ。
また、「習主席が日本に生まれていれば、私たちの自民党に入っていたということでしょうか」と聞いたら、「日本には生命力を持った政党が数多くあります。私が日本人なら、その中から最も生命力のある政党に入りますね(笑)」といったので、習の側近たちの顔は見る見るうちに青ざめたというのだ。
私は実はこの反腐敗運動については、絶大な支持をしている。なにしろ、胡錦濤がうるさ型をなだめるために、守旧派から改革派まで利権をばらまき、太子党は鄧小平の孫とか李鵬の娘、温家宝の母親とかいうように皆が海外で莫大な財産を持つようになった。
また、地方末端の役人に至るまで、役得で贈答品や宴席などでさんざん潤った。
とくに中国では日本と違い、権力があるうちに最大限に利益を享受しないと損だと考える伝統があり、しかもその不当利得の金額が国庫や国民経済を傾けるほどになっても平気である。
習近平はこの状況の悲劇的な結末を意識したのか、綱紀粛正に乗り出しており、それは正しい判断だと思う。しかし、そのかわりに、国民の支持をつなぎ止めるために、超大国としての栄光とか、領土拡張に走り出した。
中国では過去にも漢の武帝、明の永楽帝、清の乾隆帝のように、王朝が始まって数十年したあたりで、急に膨張主義になって国威発揚による国民の不満そらしを試みた皇帝がいたが、それに似ているともいえる。
そのなかでも特に似ていると思うのは、明の永楽帝だということを、「民族と国家の5000年史 ~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)で書いた。
明を建国したのは朱元璋だが、長男は若くして死んだので、孫と四男の永楽帝が争い、後者が勝った。永楽帝は、北京(順天府)をまず副都とし、ついで首都とした。そして、現在見るような紫禁城の偉容が整備されていった。しかも、もっと豪華だったたようだ。
永楽帝はまさに習近平のような皇帝だった。傑出した能力で皇帝独裁体制や大胆な対外拡大路線を成功させた。しかし、海外遠征は金食い虫になって国力を削いだ。
南蛮人が来る前に永楽帝は、鄭和の艦隊をアフリカにまで派遣したのに、その後は後退し、南蛮人たちに主導権を取られてしまった。また、倭寇にもやりたい放題されてなすすべがなかった。
鄭和の艦隊を出すような努力を続けたら中国が世界を支配することもできたのにと中国人なら考えるだろうが、無理だったのだ。永楽帝のもとで鄭和の艦隊はアフリカ東海岸まで遠征し、雲南省のイスラム教徒だった鄭和は、宦官として永楽帝に仕え、1405年から1433年まで7回にわたって艦隊を率いて遠征した。
第1回遠征では、インド洋のカリカットに行き、第4回では本隊がペルシャ湾入り口のホルムズ、一部はケニアのマリンディにまで達し、キリンを持ち帰ったので吉祥として受け取られ大成功だった。
そこで、鄭和の成果をフォローしておけば、大航海時代に西洋人に世界の海を支配されることはなかったと中国人は悔しがるのだが、鄭和の艦隊のような大規模なものでは、コストに見合う成果は上がるはずがない。
船団は200隻以上からなり、総勢3万人足らず。幅が56メートル、長さは139メートルの船もあった。半世紀以上もあとにインドに到達したバスコダガマのサン・ガブリエル号は、幅5メートル、長さ25メートルであった。
こんな経済的合理性のないデモンストレーションは長続きするはずもなく、海外進出は放棄せざるを得なくなり、中国人の出国を禁じる海禁政策をとって極めて小規模に限定された勘合貿易だけに特化し、なかば鎖国体制に入ったのである。
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