ムガール帝国と大清帝国が栄え日本が眠っていた時代

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インドの人口が中国を抜いて世界一になったらしい。また、GDPでも米中日独についで第5位になった。1990年には、日本が2位、中国が11位、インドが12位だったのが、平成という時代に日本はすっかりダメな国になった。

だが、歴史的には、中国とインドは常に世界1位と2位だった。ただ、ムガール帝国の全盛期の16~17世紀にインドが世界一になった期間があったが、18世紀には、ムガール帝国の衰退とイギリスの進出で収奪され、中国は17~18世紀に清朝に賢帝が続いて大躍進をした。

日本は貧しい国だったが、16世紀から17世紀にかけて中国や欧州の文明を取り入れて大発展をしたが、鎖国などして失速していた。中国も、1840年代のアヘン戦争で負けてアヘンと引き換えに銀が流出し、半植民地化して奈落の底に沈んだ。

それでも、19世紀の末頃までは中国とインドが世界トップと2位である時代は続いていた。

日本人は、中国とインドはダメな国だったと思っているが、実はインドは戦国時代から江戸初期には日本と同じく日の出の勢いだったし、中国は日本が江戸時代に大不振になったころ大発展していた。

そのあたりを、昨日発売の「民族と国家の5000年史 ~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)で解説したので、その抜粋をお届けする。

ムガール帝国とは

モンゴルを意味する名のムガール帝国は、16世紀にチムールの子孫が建国したことはすでに紹介しましたが、全盛期を迎えたのは、3代目のアクバル(1556年〜1605年)のときです。若いころはペルシャに亡命していたこともあって国際感覚豊かでした彼は、ペルシア人、ウズベク人、インドのラージプト人などをうまく使い、北はアフガニスタン、東はベンガル、南はデカン高原の手前までを版図に入れました。また、税金の金納を勧めたので、経済はおおいに活況を呈しました。

異教徒に課せられていたジズヤ(人頭税)を廃止するなどし、アクバル自身を教祖とする統合新宗教の樹立を夢見たといいます。有名な、タージマハールは、五代目のシャー・ジャハーンが、先立った王妃を悼んで墓所として建設したものです。

領地は六代目のアウランゼーブ(1658年〜1707年)のときに最大になり、インド亜大陸のうち最南端以外は征服しましたが、ジズヤの復活など寛容性のない宗教政策をとり、ヒンドゥー教徒の支持を失い、やがて、イギリスが進出して植民地になっていき、最終的には1856年に滅亡しました。

大清帝国とは

清国が多民族国家として円滑にスタートできて、しかも、300年近く維持されたのは、康煕帝、雍正帝、乾隆帝がまれに見る名君だったことによります。乾隆帝の晩年にはちょっと疑問符がつきますが、康煕帝と雍正帝にはほとんど悪口が出ません。

康煕帝(1661年〜1722年)は黄河の治水や大運河の改修、海禁政策の見直しによる銀の不足解消などで経済は活発化しました。宮廷生活は明に比べて質素にしましたが、熱河の承徳離宮は立派なものにして、夏にはモンゴル族などの有力者と狩猟を楽しみ、天幕で生活して彼らとの仲間意識を大事にしました。

宣教師たちの助言も受け入れ、ロシアとネルチンスク条約を結んで沿海州方面への南下を防いだので、ロシアは極寒のオホーツクにしか港を得られませんでした。

雍正帝(在位1722~35年)は、1日に4時間しか寝ず、地方官からの上申書にひたすら目を通し、官僚を指揮し、皇帝が意中の名を紫禁城の扁額の後ろに置き、崩御してから開封する「太子密建法」で跡目争いを防ぎ、官吏の給与を上げ、経費も予算化することで、裏金や汚職を排除しました。上皇陛下が大変尊敬されている名君でした。

乾隆帝(在位1735~95年)は、10回の大遠征を行い、全勝したと誇り「十全老人」と自称しました。乾隆帝のときに、清の領土は現在の中国の領土のほか、外モンゴル、それに現在の新疆省の外縁部まで含む広大なものになりました。

世界にまったく門戸を開かなかったのでなく、新大陸からトウモロコシ、ジャガイモ、落花生など新しい作物がやってきて、米も東南アジアから新品種がもたらされ、二期作、二毛作など一年になんども収穫することが一般的になりました。この転換のおかげで、人口も一億数千万人から三億人に倍増しました。