トルコの大統領選挙は、現職のエルドゥアンが、接戦ではあるが危なげなく勝利した。英米などのマスコミでは野党有利という希望的観測を流していたが馬鹿げた限りだった。
なにしろ、ウクライナ紛争でも、世界でほぼただ一人、両首脳とまともな話が出来るのだから、いま、退場されては困るのだ。
ともかく、エルドゥアンの登場から、トルコは世界の主要国としての地位をとりもどしたようだ。そのトルコを含めたイスラム世界の歴史は、複雑だが理解しないと世界を論じるのは無理だ。
そこで「民族と国家の5000年史 ~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)でも、イスラムをわかりやすく解説することにつとめたが、今回は、「365日でわかる世界史」(清談社)のなかから、トルコの部分を抜き出し整理して提供したい。
テュルク語族は日本語に似た文法を持つアルタイ語族のひとつで、中央アジア、モンゴル、シベリアのあたりがルーツである。東洋史では隋唐の時代に全盛を誇った突厥が代表格だ。
トルコ人は、紀元前7世紀に歴史の表舞台に登場し、匈奴もテュルク族だといっている。552年になってアルタイ山脈の東麓で突厥が勃興したが、トルコ共和国では、552年の突厥帝国をもってトルコの建国ととらえて、1952年には建国1400年祭が祝われ、それが、583年に隋の圧迫で東西に分裂し、東突厥は唐の建国に協力し、ここで書き言葉としてのテュルク語が生まれた。そして、西突厥の支配するシルクロードのトルキスタン地方にも唐の勢力が及ぶようになり、657年にいまのキルギスあたりにいた西突厥は滅亡した。
ウイグルは、8世紀に突厥に代わって建国され、安史の乱の時に唐を支援して有力となり、彼らの宗教であるマニ教は中国全土に広がった。グド商人を保護して東西交易で繁栄したが、840年にキルギスによって滅ぼされ、西方に移住して現在のトルキスタン(中央アジアの旧ソ連諸国と中国の新疆ウイグル自治区の総称)成立のきっかけとなった。現代のトルコ人は、そこからまた、西へ進出していった人たちである。
セルジューク朝は、アラル海東方のジャンド(現カザフスタン)にあるときイスラム教に改宗し、1038年にニーシャープール(イラン東北部)に入城し、これをもって建国とする。アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て(1058年)、聖地エルサレムまで支配したために十字軍の遠征を受けた。
セルジューク朝のもとでは多くの地方政権が勢力を持ち、アナトリア(トルコ)を支配したのがルーム・セルジューク朝だが(11~12世紀)、モンゴルの侵入で弱体化した。オスマン朝は中央アジアからモンゴルを避けて西に移り、ルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア東北部に割拠した。
オスマン1世は、1299年にベイ(君侯)として自立、これを建国とする。首都をブルサ、アドリアノープル(エディルネ)と移しスルタンを称したが、アンカラの戦いでティムールに敗れ頓挫したが(1402年)、メフメト2世はコンスタンティノープルを陥落させて東ローマ帝国を滅ぼした(1453年。イスタンブールと改称)。黒海沿岸では、キプチャク汗国から自立したクリミア汗国を属国とし(1475年)、セリム1世は、メッカとメジナの保護者でもあったエジプトのマムルーク朝を滅したが(1517年)、このときアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られたとしている。
オスマン帝国軍の主力は、遊牧民出身の騎馬兵士たちだったが、14世紀から戦争捕虜となったキリスト教徒からなる常備歩兵軍団で火器を使うイェニチェリ軍団が有力になった。中央アジア系の諸民族が火器の時代になって衰えたのに対して、オスマン帝国は時代に対応した。
スレイマン1世は、ベオグラードからハンガリー領に侵出し(26年)、聖ヨハネ騎士団が盤踞するロードス島を陥落させた。イランのサファビー朝からイラクのバグダッドを奪い、イエメンのアデンも制圧し、イランからカフカス地方を奪い取った。
ヨーロッパでは、フランスのフランソワ1世と同盟し、ウィーンを1ヵ月以上にわたって包囲した(1529年)。プレベザの海戦(1538年)では、スペインやベネチアを破って地中海の制海権を獲得し、この優位はレパントの海戦(1571年)まで続く。スレイマンはポルトガルの進出に対しても相当な牽制力を発揮した。
ところが、戦費の増大、大航海時代の到来による地中海貿易の縮小、新大陸からの銀流入による物価の高騰などが帝国の基礎を崩し始めたが、17世紀のキョプリュリュ親子が大宰相として挽回に成功した。しかし、縁故主義がはびこり、手詰まりとなった。
日露戦争での我が国の勝利の結果は、トルコにも大きな衝撃を与えた。トルコでは明治日本に先駈け1876年に「ミドハド憲法」が制定された。翌年には議会も召集されたが、スルタンは露土戦争での敗戦を口実にこれを停止してしまった。
日本がトルコの宿敵であるロシアに勝ったことで、「立憲政治だから日本はロシアに勝った」という声が上がって復活した。しかし、これが、諸民族の不満の表面化につながったし、トルコ人の間ではトルコ語の強制や中央集権を図るトルコ民族至上主義を盛んにして、アルメニア人への抑圧や、アラブ民族主義への弾圧につながった。
しかも、第一次世界大戦ではドイツ・オーストリア側についた。戦争末期には、連合軍のイスタンブールの占領を受けてアンカラに軍人ケマル・アタチュルクの政府が樹立されたが、スルタンはこれに非妥協的態度で臨んだため追放されるはめになった。
列強はトルコをアンカラ周辺の小国にしてしまおうとしたが、ケマルはエーゲ海沿岸へ進出してきたギリシャ軍を撃退し、アルメニア独立の動きを封じ込め、アンティオキア周辺をシリアから取り戻し、イスタンブールの確保にも成功した。
第1次戦争など相次ぐ戦役と内乱でトルコ人の死者は250万人に達し、オスマン帝国内で商工業活動を担っていたギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人などが去ったことから貧しい農業国になってしまった。クルド人の独立を封じ込め、「クルド人などという民族はない」として同化政策をとったが、クルド問題は歴代の政府を悩ますことになる。
もちろん、ローマ字の採用、教育も含めた非宗教化、国家資本主義的政策、不平等条約の撤廃などケマルの改革の成果は大きく、トルコは西欧的価値観に近い国家として自立した。第二次世界大戦では中立を保ち、終戦直前になって連合国に参加した。
戦後のトルコは、ギリシャとともに、西側陣営の砦として米国の後押しを受け、NATOにも加盟したが、キプロス紛争で欧米がギリシャの側に立ったのに反発した。近年はEU加盟交渉もなされたが、死刑制度の存続、アルメニアやクルドの問題もあり難航しているうちに、エルドゥアンが首相から大統領となった。
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