人間の真の価値

『論語』の「子罕(しかん)第九の二十九」に、「歳(とし)寒くして、然る後に松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知る」とあります。孔子は「冬の厳しい寒さになって、初めて松や柏が枯れないことが分かる。人間もまた大事に遭遇してはじめて、その真価が分かる」と言っています。一人前のことを言いながら、何も出来ない人は多くいるよう感じられます。「人間の真実の価値は、なさねばならぬことをきちんとするところにある」(河合栄治郎)--人間の価値とは、何らか事が起こった時の行動にある、とは一面真実だと言えましょう。

当ブログ「北尾吉孝日記」ではこれまで、人間の価値につき偉人の色々な表現を御紹介してきました。例えば、安岡正篤及び森信三という日本が生んだ2人の碩学の言では、「人間の真価はなんでもない小事に現われる」「誠に人の晩年は一生の総決算期で、その人の真価の定まる時である」(安岡正篤)とか、「人間のネウチというものは、その人が大切な事がらにたいして、どれほど決心し努力することができるかどうかによって、決まるといえる」「人間の真のネウチというものは、一、その人がどれほど自分の仕事に忠実であるかという事と、もうひとつは、二、心のキレイさにある」(森信三)といったものです。

私が思うに人間の価値とは、とどのつまり品性であり、そこに尽きるでしょう。隠そうにも隠せるものでなく、必ずあらわれてくるのがその人の品性であり、その人の真価というものであります。「経営者が為さねばならぬことは学ぶことが出来る。しかし経営者が学び得ないが、どうしても身につけなければならない資質がある。それは天才的な才能ではなくて、実はその人の品性なのである」とは、ピーター・F・ドラッカーの言葉です。人間としての品性を高位に保つは難しく、だからこそ平生の心掛けを大事にすると共に、必死になって学問修養をして行かねば、品性は決して磨かれないのです。様々な事柄の結晶がそこに凝縮され結果として、品性ということで全人格的に集約されるのだと思います。

私はまた同時に人間として、自分の為だけでなくどれだけ人の為に自分のエネルギーや知恵を費やしたかも大事だと思っています。自分がやろうとしたことを自分が決めた通りにやり抜きましたということだけで、人の為にならなかったとしたら、その人は果たして偉かったと言えるのでしょうか。勿論、当代の人には分からなかったとしても、時の経過とともにその価値が理解された、といったケースもあるとは思います。だから、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの言にあるように、「人間の真の価値は、何を目指すかによって判断される」のです。人間の真価というのは所詮、人の為「何を目指すか」で、はかられるべきだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年6月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。