家康はなぜ嫌われねばならないか?徳川時代は李氏朝鮮のコピーだ

家康はなぜ嫌われるのか:「徳川時代」の歴史的意義再考(金子 熊夫)」という記事をアゴラで見つけたので、ちょうど、昨日、「信長・秀吉・家康と同世代の世界の帝王たちは誰?」という記事を書いたばかりなので、国際的な視野も入れながら、検証してみようと思う。問題提起としてはなかなか面白い。

より詳しくは、「民族と国家の5000年史~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)と、「令和太閤記・寧々の戦国日記」(ワニブックス)を参照願いたい。

徳川家康像(東岡崎駅前)
Wikipediaより

金子氏は、「信長と秀吉はそれぞれ天才的な人物で、突出した個性の持ち主」「豪快、闊達、派手好みという点で、この二人は現代人にアピールする」のに対して、家康は、いかにも、地味で泥臭いとされているが、むしろ、近年は家康のほうが秀吉より人気がある。

信長は改革者として人気があるが、秀吉は文禄・慶長の役のせいでの対中韓配慮で誉めてはいけないというのがNHKでの扱いだ。それに対して、家康の消極性は平成という日本沈没の時代の時代精神と同じ路線だから共感を呼んできた。というか平成日本は徳川日本の劣化コピーなのだ。

「性格の違いは、三人が造ったお城にも端的に表れています」という。信長の絢爛豪華な安土城、秀吉の伏見城、大坂城等に比べて、「家康が関係する城は、岡崎城、吉田城、駿府城などいずれも地味で、あまり見栄えがしません(江戸城は立派ですが、家康の死後大幅に改修拡充されたもの)」と仰る。

だが、岡崎城は豊臣大名である田中吉政、吉田城は同じく池田輝政が現在見る城の姿の基礎を作っているので勘違いで家康と関係ない。

逆に駿府城は豪華絢爛な城だったし、現在、各地に残っている伏見城の遺構は関ヶ原の戦いの後、家康が再建したときのものだ。江戸城も城下町はともかく城の中枢部は家康時代のものだ(家康はあまり長く在城せず秀忠に譲ったが)。また、名古屋城はまさに家康の創始した城だ。

ただ、家康晩年あたりからの江戸時代の城は土木技術としては進化していたが、芸術的にはワンパターンで面白くないものになっているのは事実であるし、そもそも、江戸時代の建築は室町時代や安土桃山時代に比べて、薄っぺらであまり評価出来ない。

李氏朝鮮を理想として樹立された徳川幕藩体制

「戦いの仕方や戦法についても、信長、秀吉に比べ、家康はあまり独創的」とはいえないとか、棚ぼたで天下をとったから人気が無いと記事では仰っているが、家康の隠忍自重について人気が無いわけでなく、国内だけでなく、山岡荘八の小説「徳川家康」は、韓国でも『大望』というタイトルで大人気で、朴槿恵元大統領の獄中での愛読書としても知られている。

ただし、金子氏が遺訓として引用されている「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基・・・」というのは、偽者だということで確定済みである。

家康の長寿が成功の秘訣だというのはその通りだが、「孫の家光が第三代将軍になるのを見届けることができ、徳川幕府を盤石なものにすることができた」というのは事実でない。

また、「265年に及ぶ徳川幕府の政権は、多少の混乱はあったものの、世界史的に見ても類を見ない『長く平和な治世』だったと内外から高い評価を受けています」というが、停滞的で変化のない社会が細く長くつづくのなんか当たり前だ。

李氏朝鮮は1392年から1910年まで518年、北朝鮮も75年「長く平和な治世」を続けていたのだから、江戸時代を誉めるなら、もっと誉めるべきだ。

江戸時代は、李氏朝鮮から朱子学を導入し、コリアン・モデルにならった身分が固定的な社会を構築し、鎖国まで真似たのだが、薩長土肥のような、豊臣時代の活発な精神を残した外様大名を存続させるという不徹底さが仇となって、近代国家の実験場として機能したので滅びてしまった。

江戸時代とほぼ同時代の清国では、経済が急速に発展し、飢饉もほとんどなく人口は順調に伸びた。それに対して江戸時代の日本では、餓死者の大量発生を繰り返して人口も停滞した。清国が衰退するのは、イギリスにその繁栄を妬まれて1840年代にアヘン戦争を起こされ、アヘンなどを解禁したために、銀の大量流出に見舞われてからである。

つまり、江戸時代は平成年間と同じように、中国は大発展、日本は大停滞の時代だったのである。

そんなものが内外から高い評価を受けているとは思えない。また、鎖国の功罪は決めがたいと仰っているのも論外だ。

「鎖国政策の結果、日本は西欧列強の餌食にならず、独立国として平和裡に暮し、独自の文化を育み、経済的な実力を蓄えることができた。だからこそ明治維新以後、驚くほどの短期間に文明開化と工業化に成功し、一流国の仲間入りを果たした。このことは、明らかにプラスの評価に値します。『眠れる獅子』の中国(清)の醜態を見れば、疑う余地はありません」としている。

だが、17世紀の前半という時代に、ポルトガルはゴアやマラッカのような拠点は設けたが、面としての植民地経営はしておらず、スペインは金属製の武器すらない新大陸や政府らしきものも存在しなかったフィリピンなどでしか植民地支配はしておらず、東アジアで中国、韓国、日本のようなしっかりした統治機構が存在する地域を植民地化する力などまったくなかった。

植民地化の危機に直面したのは、二世紀あまりの鎖国によって産業や軍事技術の発展がその分、遅れてしまい、火縄銃で19世紀帝国主義時代の欧米列強と対峙しなくてはならなかったからであって、鎖国がいかなる意味においても、独立維持に貢献した理由は皆無である。中国が眠れる獅子になったのは、せいぜい、19世紀中盤以降だけである。

また、日本経済は南蛮船の到来によって西洋だけで無く中国の技術も得ることができ、産業技術での発展途上国状態から脱して世界有数の鉄砲生産国となったほどだった。そして、その技術が民生に応用された江戸初期は鎖国後も少し余韻は残ったが、そののちの経済の停滞は惨めなものだった。

独自の技術といっても、西洋の技術が入らないなかで開発された、戦時中の木炭自動車とか東独の段ボール製自動車みたいなもので、西洋の技術が入ったらたちまちのうちに駆逐されてしまった。

北朝鮮の鎖国に近い状態による世界文明からの遅れは、いくら江戸時代の日本と同じように、若干の独自の文化や産業の独自の発展があったからといって国民のために容認できないが、それでも指導者たちは、軍事技術やIT技術の重要性を認識し、安全保障面では、選択的に世界の動向から遅れないようにしているし、スマホなども普及しているようで、徳川幕府ほど間抜けなわけでない。

教育も識字率が高かったというのは、仮名の読み書きが出来た率と、中国で数千字の漢字を読み書きできるとか、西洋で複雑な文法が使いこなせると行った人の率と比べているだけである。しかも、仮名が使える率が高いことはザビエルすら報告しており、江戸時代の進化ではまったくないという意味でも、江戸時代が日本の近代化の素地をつくったというのは間違いである。

外国奉行・岩瀬忠震の無責任な大馬鹿ぶり

家康に人気が無いのは、「日本人は成功者よりも、悲劇の主人公に魅力を感じる心理的傾向がある」というが、源頼朝より義経、吉良上野介より赤穂浪士が好まれ、真田幸村も悲劇のヒーローだという例を挙げられているが、平家の人々や淀殿が好かれているわけでもないし、忠臣蔵では、赤穂浪士は別に悲劇のヒーローでなく、形式的なお家再興と自分たちの家族の就職運動の成功者だろう。

徳川の不人気の理由として、明治政府による「徳川」の匂いのするものがすべて否定され、将軍家や家康の功績がすべて歴史から抹殺されたという。織田家は滅びたといっているが事実に反して小大名(江戸中期までは官位は大大名なみに高かった)としては存続しているし、徳川は明治になって二つの公爵、三つの侯爵、三つの伯爵家として隆々と栄えたし、歴史観として天下太平が全面否定されたわけでもないなど歴史認識が間違っている。

また、「外国奉行として、米国の初代総領事ハリスと交渉して日米修好通商条約を調印し開国への道を開いた、岩瀬忠震の功績が葬り去られた」というのも間違いで、確かに頭脳明晰な片鱗は随所で見せているが、外国奉行でありながら万国公法の勉強もろくにせずに交渉に臨み、ハリスに教えを請いながらの交渉だったので、治外法権とか関税自主権について質問もせずに、やすやすとしてやられた張本人なのだ。