外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫
NHK大河ドラマ「どうする家康」は、私も家康の生地、三河生まれの一人として、毎週真面目に観ています。最初のうちは、やや奇抜なストーリー展開や、一部の役者の大袈裟な演技にいささか辟易しましたが、回を重ねるごとに落ち着いてきたようで、今後の展開が楽しみです。
主人公の家康については、「家康と三河、三河人気質:三河は日本の「へそ」である!」でちょっと触れましたが、紙幅の都合で中途半端に終わったので、今回その続きを書くことにします。
ただし、毎度お断りするように、私は、日本の中世史の専門家ではなく、まして家康や徳川時代の研究者ではないので、ここでは世間一般に受け入れられている史実と評価に基づいてお話を進めて行くことにします。従って、地元・三河在住の読者諸賢には、あまり新味はないかもしれませんが、そこはご勘弁いただき、もし私の記述に誤解や間違いが見つかれば、忌憚なく叱正して下さるようお願いします。
3大英雄の微妙な関係
さて、日本史に登場する偉人の中で、徳川家康ほど好き嫌いの評価が分かれる人物も珍しいのではないかと思います。とくに戦国時代に限ってみれば、織田信長と豊臣秀吉はそれぞれ天才的な人物で、突出した個性の持ち主でした。豪快、闊達、派手好みという点で、この二人は現代人にアピールする要素を多く備えています。対する家康は、いかにも三河的というか、地味で泥臭く、没個性的な印象があります。
そうした性格の違いは、三人が造ったお城にも端的に表れています。信長の絢爛豪華な安土城、秀吉の伏見城、大坂城等に比べて、家康が関係する城は、岡崎城、吉田城、駿府城などいずれも地味で、あまり見栄えがしません(江戸城は立派ですが、家康の死後大幅に改修拡充されたもの)。
さらに、戦いの仕方や戦法についても、信長、秀吉に比べ、家康はあまり独創的とは言えません。天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、結果的に勝ちはしたものの、彼の戦法には天才的なひらめきや奇想天外なところは全く見られません。
小早川秀秋を調略して裏切らせたやり方にも、汚い手を使ったという感じがあり、堂々と横綱相撲を取ったという風には見ません。さらに、天下を取ってからの大阪冬・夏の陣についても、狡猾、陰険な策を弄して豊臣家を追い詰め滅亡させてしまったという印象が拭えません。
隠忍自重と辛抱の一生
そうしたことから、家康には、何となく腹黒い策略家、「狸親父」というマイナスのイメージがあり、信長と秀吉が切り開いてくれた道を労せずして歩み、ちゃっかり天下人に収まったずるい男だという風に見られがちです。「織田が搗き、羽柴がこねし天下餅、座して喰らふは徳の川」という狂歌が流行ったのもそのためでしょう。
しかし、だからと言って、家康が信長や秀吉に比べて一段低い人物で、隠忍自重、辛棒に辛棒を重ね、棚ぼた式に天下を手に入れただけの武将と見るのが間違っていることは言うまでもありません。
彼が不遇な少年時代を経験したせいで忍耐強い性格になったことは確かで、有名な遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。堪忍は無事長久の基・・・」によく表れています。
長寿健康も実力のうち
参考までに、3人の寿命と年齢差を比べてみると、信長48歳、秀吉61歳、家康73歳(いずれも満年齢)。信長と秀吉の年齢差は3歳、秀吉と家康は6歳。信長と家康は9歳。家康が最も若く、しかも最も長生きしたわけで、これが家康に決定的に有利に働いたことは明白です。家康が長命だったからこそ、孫の家光が第三代将軍になるのを見届けることができ、徳川幕府を盤石なものにすることができたのです。
他方、もし信長が本能寺で討たれず、後20年長生きしたら、あるいは、秀吉が後10年長生きして秀頼の成長を十分見届けることができたら、家康の目はなかったのではないかと思います。
こう見てくると、権力者にとって、長寿と健康は最大の武器であり、家康が晩年に至るまで鷹狩りで足腰を鍛え、自ら薬を調合するなど健康保持に細心の注意を払ったことは重要なポイントです。長寿は天の定めですが、それ自体、実力の重要な要素とみることができます。
成功者が嫌われる国民性
いずれにせよ、1603年の江戸開府に始まり、1867年の大政奉還に至る265年に及ぶ徳川幕府の政権は、多少の混乱はあったものの、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世」だったと内外から高い評価を受けています。
そんな江戸時代の基礎を築くことに成功した家康ですが、その偉大な実績とは裏腹に、日本人の間では、今も昔も意外と人気は乏しく、「嫌われ者」になることも多いのはなぜでしょうか。この謎を解くことは、現代の政治家や企業の経営者だけでなく、私たち一般市民にとっても重要なヒントになるのではないかと思います。
この謎を解くカギは、案外簡単なことかもしれません。一口で言えば、日本人は成功者よりも、悲劇の主人公に魅力を感じる心理的傾向があるということです。
例えば、鎌倉幕府を創った源頼朝より弟の義経に同情が集まり(判官びいき)、大坂夏の陣で豊臣家に殉じた真田幸村(信繁)が勇名を残し、後の「忠臣蔵」では、被害者であるはずの吉良上野介が憎まれ、赤穂浪士が「義士」として美談となったのも、その一例でしょう。
武士らしく潔く散らずに、家康のように、しぶとく長生きし成功者として大往生した人は一般庶民の感動を呼ばず、むしろ怨嗟、嫉妬の対象となり、敬愛されることもなかったのでしょう。
明治政府が「徳川」を抹殺
もう一つの理由として考えられるのは、維新以後、薩摩・長州出身者が牛耳る明治政府は、「徳川」の匂いのするものはすべて否定し、徳川幕府の業績も、開祖・家康の功績もすべて歴史から抹殺しようとしたからでしょう。
信長と秀吉の場合、死去により、織田家と豊臣家は共に滅びたのに、徳川家は15代、2世紀半も永続し、多くの実績を残したから、それだけ明治新政府は、警戒し忌避したのです。時の権力者が前任者の業績を全否定し歴史から削除しようとするのはよくあることです。
余談ながら、幕末に尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中で、初代外国奉行として、米国の初代総領事ハリスと交渉して日米修好通商条約を調印し開国への道を開いた、三河縁故の岩瀬忠震(ただなり)の功績が葬り去られたのも同じ理由によると考えられます。
長篠・設楽原のミステリー
そういう意味では、家康と徳川幕府の歴史的意義は今後さらに再吟味されるべきで、近年の歴史学者の努力によって、様々な史実が明らかとなり、歴史上の人物や業績の再評価が進んでいるのは、健全な流れだと思います。
なお、これも余談ですが、織田・徳川連合軍と武田騎馬軍団が激突した長篠・設楽原合戦(1575年)では、信長のアイデアで鉄砲3,000丁(一説によれば1,000丁)を三段構えで撃ったというのはどうやら間違いで、実際にそんなことは不可能だという説が有力になっているとか(※)。
とかく、戦記物には語り手の偏見や後世の歴史家や講談師の勝手な脚色が多いようなので、眉に唾を付けて読んだ方がよいと思います。
(※)「長篠・設楽原の戦い 鉄砲玉の謎を解く」小林芳春著、黎明書房 2017年)第三章など。
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さて、最後に私は、国際政治の研究者として、家康が築いた徳川幕府の外交政策に大いに関心がありますので、その観点から、幕府による鎖国政策について少し触れておきたいと思います。
鎖国政策の利害得失
家康が生前、西欧列強による日本の植民地化を警戒して、外国との交流・交易に否定的で、キリシタン弾圧を行ったことは確かですが、一方で、英国人ウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)を外交顧問として重用し、世界の動静に関心を持ち続けたことも事実です。しかし、彼の死後、3代将軍家光の時代に「鎖国令」(1639年)が布かれ、オランダとだけ長崎の出島を通ずる交流を認めた以外には一切の交流を禁止しました。
このことが、その後の日本にどのような影響を与えたかについては、歴史学者の間でも様々な議論があり、私も一家言を持っていますが、ここでは紙面の都合で深入りしません。
ただ、はっきりしていることは、徳川幕府の鎖国政策の結果、日本は西欧列強の餌食にならず、独立国として平和裡に暮し、独自の文化を育み、経済的な実力を蓄えることができた。だからこそ明治維新以後、驚くほどの短期間に文明開化と工業化に成功し、一流国の仲間入りを果たした。このことは、明らかにプラスの評価に値します。「眠れる獅子」の中国(清)の醜態を見れば、疑う余地はありません。
他方、もし鎖国をせず、諸外国との自由な交流をしていたならば、そして、もし幕府が自力本願の外交姿勢を貫いていたならば、経済はもっと繁栄し、日本人はもっと開明的になり、外国語(英語かフランス語かスペイン語)を自由に喋るようになっていたでしょう。英国の植民地だったインドやシンガポール、米国の植民地だったフィリピンを見れば明らかです。しかし、その代り、日本が現在のような日本であり得たかどうかは疑問でしょう。
現在の日本人が外国語苦手、外交下手だなどと言われるのはもっぱら徳川幕府の鎖国令のせいですが、もし鎖国していなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれません。要するに、江戸時代の評価には当然ながらプラス面とマイナス面があるということで、簡単に結論が出る問題ではありません。そこに歴史を学ぶことの醍醐味があります。
(2023年6月19日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。