壊れても捨てない!修理する社会が来るのか?

ニューヨーク州で修理する権利を保護する法案が可決する方向で進んでいると報じられています。メーカーは顧客が修理するための支援を行い、その情報はネット上に公開すること、となっています。ネット上の公開を要求されればこれがアメリカの一州の法案であっても実質的に世界的に影響を与えることになります。知的財産権に引っかかりそうな気はします。

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私が10数年前、日産GTRを購入した時、販売担当者から「修理や点検は弊社だけに持ち込んでください。高額なGTR専用の検査器具を備えており、それを通じて修理点検をしないと保証が切れますのでご注意を」と。結局何度かそこに点検で持ち込みましたが、高額でやりきれなかった記憶があります。保証期間が切れた後、知り合いの店に持ち込んで修理点検をお願いしたところ、「日産のワランティ、切れますよ」と。いいからやって、と言ってそれ以降、特段、問題は発生していません。知り合いのところでやれば価格は半分程度で収まります。

ある人が「うちの洗濯機、そろそろ買い替えようか?」と。壊れてもいないのに不思議だな、と思って聞いていると「5年も使って飽きたじゃない。新型も出ているし」と。もう一つ、ラジオで洗濯機にまつわる話を聞いていたら「結婚祝いで自分が欲しくないタイプの洗濯機をもらったので捨てる訳にもいかず、2年だけ義理で使ってようやく欲しいタイプに買い替えた」と。

壊れなくても買い替える需要はメーカーにとっては嬉しい話ですが、価値観の相違とは言え、個人的には無駄遣いのようにも聞こえます。私が普段使っているノートパソコン、もう、7年になりますが、途中でメモリーを増設したり、すっかりダメになった際、デフォルト設定から全部やり直したりしたこともありますが、これだけ持ち歩いている今でも全然普通に使えます。

私はどうも英国風のものを大事にする癖があるようで壊れてもどうにかして直せないか、と工夫をするようにしています。「壊れた!」と言ってもごく一部の部品が不良化するだけで全体には問題はないケースが大半です。わずか数百円の部品を一つ交換するのに数万円の修理費をかけるわけですが、これがもう少し安くなれば良いのにな、と思います。

アメリカの捨てる文化にも閉口です。私がマンションデベをやっていた時、トイレ廻りの機器の不具合が出た際にメーカー保証を求めたところ、何も言わずに新しいものと交換してくれました。理由は修理は出張訪問し、問題の発見、部品の発注、修理という段階を経なくてはならず、それをするならさっさと新品と交換した方がコストが安いというものでした。特にトイレ廻りの機器だと衛生上、修理する人も少ないこともあるのでしょう。

修理する文化は世の中、便利になるとともに廃れてきていると思います。理由は何処がどう壊れたか、自己判断できないからです。もちろん、無知な人が分解修理は出来ませんが、大半の取扱説明書には「困ったら」という欄があり、Q&Aが羅列してあります。その中には笑い話にもならない設例、電源は入っていますか?コードはきちんと接続されていますか?といった話が割と多いのです。

日本では少ないですが、北米では駐車場のゲートが自動開閉や建物に入る際に特殊な機器、フォブとかクリッカーと称するものを使い開錠します。時々、客から「フォブが使えないんだけど」とクレームの連絡をもらうのですが、99%のケースは単なる電池切れなのです。非常に小さいコイン型電池が入っているのですが、その存在を知らないわけです。「へぇー、電池が入っているの?」と言われたらこちらが聞きたくなります、「電池がなきゃ、どうやって動くのですか?」と。

修理する文化は重要なのですが、個人的にはさほど広がらない気がします。洗濯機の例ではないですが、「壊れることを期待して」「古くなったことを理由に」新しいものを買う方が魅力的だということなのでしょう。修理はコストがかかるのです。その8割以上は人件費が占めます。そして手間暇もかかります。

私が20年以上使っているスイスの時計は時々オーバーホールが必要ですが、メーカーに頼めば10万-15万円、家電量販店で7万円程度、日本の近所の時計屋なら5万円です。時計はインフレしていて貴金属としての価値が高く20年前と比べ2倍にはなっています。つまり、中古でも極めて高い価格が付くので当然ながらメンテはし続けなくてはいけません。中古市場が確立され、流通しているもの、例えば家、自動車、バイクや自転車、時計は修理をすれば価値の下落は最小限に食い止められます。最終的にはモノを大事にする人には福が来るような仕組みですかねぇ。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年6月28日の記事より転載させていただきました。