ワグネルの反乱で漁夫の利を得たと見られているのがベラルーシである。もともと、ロシアの窮地のどさくさに国内にロシアの核を持ち込ませて周辺諸国を威嚇していたが、今度はブリゴジンを呼び寄せ、ワグネルには基地を提供する。
これでは、ルカシェンコ大統領の独裁を批判しロシア陣営の弱く攻撃しやすい部分であるどころか、もっとも厄介で、リトアニア、ウクライナ、ポーランドにとって最大級の脅威に「昇格」してしまった。
これら諸国にとっては、ウクライナをけしかけてロシアを封じ込め安全が向上するはずがとんでもないことになったのかもしれない。
だが、ベラルーシについて日本人は殆ど知らないので、関連するポーランド・リトアニアの三国史を、「民族と国家の5000年史~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)と「365日で分かる世界史」(清談社)を使って少し紹介しよう。
なお今回の記事は、私のメルマガの記事を短縮したものである。
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ベラルーシは、「白ロシア」と呼ばれ、「小ロシア」といわれたウクライナとともに国連に加盟していた。英連邦各国の加盟に難色を示したスターリンへの譲歩でチャーチルが認めたのである。
「ベラ」は「白い」という意味で、空の色とか人々の肌の色とかもいうし、モンゴルの支配を受けなかったことだともいう。
キエフ大公国から派生した多くの封建勢力のうち、ポロック公国に淵源を持つといえなくもなく、モンゴルの支配は及ばなかった。モンゴルの支配は、最大限でキエフあたりまでで、それもやがて現在のウクライナの東部・南部までとなり、リトアニアの支配下に入ったがベラルーシも同様である。
のちに、リトアニアはポーランドと同君連合を組んだが、そのときに、ポーランド領とされたのがウクライナ西部、リトアニア領とされたのがベラルーシである。そして、ウクライナ西部は17世紀にコサックがヘーチマン国家という自治領的なものとなったが、やがて、ロシアの庇護を求めて、18世紀には完全併合された。
ウクライナ東南部は、ロシアがモンゴルやオスマン帝国から獲得したもので、ウクライナとは歴史的に関係ない。
ベラルーシは、平原が続くが、沼沢地が多く、実り豊かというわけでもない。首都はミンスクだが、歴史的な景観はあまりない。鉄道の分岐点となってから産業が発展した。「ミン」は交易、スクは「津」といった意味らしい。
世界遺産になっているのはミールという城である。ウクライナほど誇り高くないので親露的だ。旧ソ連のなかでは地理的に西欧に近いのが強みで見通しはそれなりに明るい。資源では泥炭が豊富。
有名人としては画家シャガール、それに、両親がベラルーシの出身で、1986年に隣国ウクライナで発生したチェルノブイリ原発事故を避けて一家が避難したシベリアで生まれた女子テニスのシャラポワがいる。
ポーランド人は誇り高い。スラブ民族のなかでもっとも文明人だと信じている。姿形も美男美女揃いだ。だが、現実にはここ数百年、ロシア人やドイツ人にやられっぱなしだ。そこですっかり皮肉屋になった。アネクドードはロシア人も得意だが、ポーランド人の方が1枚上だ。
ポーランド(語源は平原)では、ミェシコ1世が966年にキリスト教を受け入れ、ボレスワフ1世フロブリは1000年に神聖ローマ皇帝より王冠を授与された。14世紀にはポーランドとリトアニアがヤゲロー王朝のもとで合一し、大国としてウクライナまで領土に加え、プロイセン地方に宗主権を行使し、ロシアまで攻めこむなど黄金期を迎えた。
このころ、クラカウを中心にルネサンス文化が栄え、コペルニクスを生んだ。また、西欧を追われたユダヤ人を多く受け入れたので、ユダヤ文化とポーランド文化は渾然一体となっているところがある。
17世紀にはウクライナはロシアに併合され、東プロイセンへの宗主権も失われた。少数でも反対があれば決定が下せない過度の民主制が迅速な意志決定を阻害したのが原因といわれる。
しかも、1772年から95年まで3回にわたってロシア、プロイセン、オーストリアの間で分割され国がなくなった。
独立は第一次世界大戦の終結ののちである。だが、すぐに港町グダニスクをめぐってのドイツとの紛争を機に、独ソで分割され再びポーランドは消滅した。
戦後は、東部3分の1をソ連にとられ、かわりに、西部で伝統的なドイツ領の大きな部分を与えられた。
リトアニアはヨガイラ(ヤゲロー)王がポーランド女王と結婚して同君連合を組み(1386年)、そののちも、連合関係は続け、タンネンベルクの戦いではドイツ騎士団を破った。だが、ロシアのリトアニアへの圧迫が強まる中で、ルブリン合同によりリトアニアは実質的にはポーランドに併合され(1569年)。
第三次ポーランド分割によってロシア帝国に併合されたが、(1795年)、第一次世界大戦ののち独立し、第二次世界大戦中の1940年にソ連によって併合された。
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