緊急事態宣言は、なぜ人々の心に届かないのか

畑 恵

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何のために、そのことをせねばならないのか理由がわからない要請をされた時、人は困惑する。

しかもその要請が、生活を著しく制限したり困窮させたりする場合、困惑はやがて怒りに変わる。

何かを要請する際は、まずその要請がどのような結果を導くためになされたものか、要請と期待される結果の因果関係を論理的・科学的に説明した上で、要請実施によるリスクよりもベネフィットの方が高いことをデータで証明する必要がある。

そして、ある程度の犠牲を払っても要請に従う方が、結果的に自分の利益となることを理解させなければ人は動かず、要請者が期待したような結果は得られない。

しかし、たとえ論理的に理解できたとしても、払う犠牲が大きいとやはり要請に従う気にはならないこともある。

そこで必要となるのが、要請する者から要請される者への「思いやり」、つまり要請に従うことで生じる犠牲や痛みに「寄り添う姿勢」である。

要請に従う者が今後負うこととなる犠牲や痛みに対し、要請する者が十分に想像力を働かせ、その辛さや苦しさを我が身のこととしてどれだけ受け止めているか。

その痛みや犠牲を軽減するために、どれだけ汗を流し知恵を絞り補償というカタチで誠意を示し、覚悟を持って臨んでいるか。

それが要請者から伝わって初めて、頭での理解は心からの納得に変わり、人は動く。

今回発出された緊急事態宣言はどうか。

感染の主原因は“飛沫”であることが科学的に立証され共通認識となっており、それを拡散させないよう法的に(せめて条例でも)規制をかけることが何より先決だと思うのだが、マスクを着用せず他者との距離も取らず飛沫を拡散させる明らかな危険行為は、私権の制限に抵触するからという理由で、相変わらず野放しのままだ。

健康増進法を一部改正したいわゆる「受動喫煙防止法」により、副流煙の曝露を防止する取り組みが法的に実現している日本で、受動喫煙とは比較にならないほど危険性が高い飛沫曝露がなぜ法律で防止できないのか、まったくもって理解に苦しむ。

その一方で、飛沫拡散リスクを極限まで減らして、これまで努力と我慢を続けて来た多くの人々の生活や健康が、さらに無意味に脅かされて行く。

各店舗やイベントでの感染リスク低減の努力や達成度の違いなどはまったく無視して、政府はどの施設にも一律に大規模な休業要請を発出し、飲食では特にアルコールを狙い打ちにした。

このままでは施設や店の経営者や従業員だけでなく、関係するあらゆる業種、さらには農畜水産業までもが連鎖して皆息絶えてしまう。

さらに協力金や事業支援金の少なさや支給の遅れが犠牲に輪をかけ、要請する為政者への不信感に拍車をかける。

たとえば、顧客の多くが高齢者で感染対策にも万全を期している老舗百貨店にも休業要請を行いながら、協力金は一日たった20万円だという。

20万円というあまりにも損失利益とかけ離れた金額を、協力金として提示すること自体、要請先を愚弄する話で、要請者サイドの心無さや傲慢さ、品の無さを感じて胸が悪くなる。

このように心ない対応を現場の行政官に平気でさせる為政者たちに、もはや科学的根拠に基づいて緊急事態宣言による感染抑止効果の目算、解除の目安、解除後の将来展望について論理的説明を求めること自体、虚しくなって来る。

都知事は20時以降、すべての街の灯を街灯以外すべて消すよう要請した。

誰しもが不安を抱え、生活に困窮する者も急増する中、明かりを消して東京の治安はどうなるのか?

街の灯が消えることが、人間の精神にどれだけのダメージを与え元気や活力を奪うのか、東日本大震災で思い知った者として、また東京五輪で活躍するアスリートたちに困難に打ち克つ元気や勇気を、今だからこそ世界中に届けてもらいたいと心から願う一人として、いたたまれない思いに苛まれる。

こうした唐突な要請の背景に、是が非でも東京五輪を開催しようとする為政者の腹の内が透けて見えて、開催への国民の意欲や共感は益々減退し、為政者への不信は高まる

都知事は灯りを消せば、飲食店や路上に人々は集わず室内に籠ると考えているのだろうが、心が荒みストレスが溜まれば今度は部屋の中に集まって、より無節操に酒を酌み交わすのがオチだ。

「ステイホーム」と言われても、安心して暮らせる部屋や家族さえ失いかけ不安と苦悩を抱える民が、自分たちの施策により日を追って増加していることに思いを致す想像力を、この国の為政者ははたして持ち合わせているのだろうか。


編集部より:この記事は、畑恵氏のブログ 2021年4月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は畑恵オフィシャルブログをご覧ください。