このところロシアについてのニュースが入って来ない。ウクライナ紛争の前までは、NHK BSのワールドニュースで毎日、ロシア公共テレビのニュースを流してくれていたので、ロシアの動きや人々の考え方が手に取るように知ることができたのだが、ウクライナ戦争が始まったら止めてしまった。
敵であろうがなんであろうが、これまでよりロシアのことを知らなくてはならないのに馬鹿げたことだ。ウクライナのテレビニュースなど聞いてもBBCと同じことしからやってないからほとんど価値がない。
このところ、『民族と国家の5000年史~文明の盛衰と戦略的思考がわかる』(扶桑社)と『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館八幡和郎・篠塚隆)でロシアのことを手厚く扱ったら結構評判がいい。これまであまり付き合ったことがない傾向の人も褒めてくれる。
ロシアについては、国内では担当したことないが、パリでヨーロッパ諸国とロシアとの関係の調査をしていたことがあるので、そういう視点については自信がある。
そこで、今回は、ロシア皇室の話を少ししたい。キエフ大公国は簡単にして、とくに、ロマノフ家のことをはなそう。
モンゴルが来襲したとき、リューリク家というバイキングの子孫が建てたキエフ大公国は分家が自立して弱体化したまま滅ばされたが、分家の一つであるノヴドゴロ公国の王子アレクサンドル・ネフスキーがモンゴル支配の元で台頭し、その子のダニールは興したのがモスクワ公国で(14世紀に大公国に昇格)、キエフ大主教もここに移ってきてキエフ大公国の継承者となった。
イワン3世がビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を妃に迎え、「ツァーリにして専制君主」と称し、キプチャク汗国からの独立を宣言した(1480年)。
その孫でタタール人の母を持つイワン4世(雷帝)の強引な中央集権化に反発して混乱期が続くなかでイワン4世の子であるフョードル帝の死後、その義父であるボリス・ゴドノフが即位したが、やがて、イワン4世(雷帝)の妃の兄の孫であるロマノフ王朝の始祖ミハイルが擁立された。
ロシアの大国としての基礎を固めたピョートル大帝のあと、その妻や親族など女帝が即位したこともある。大帝の娘でドイツのホルシュタイン・ゴットルプ公妃になったアンナの息子がピョートル3世として即位したものの、あまりにも頼りなかった。そこで、ピョートル3世の又従姉妹である皇后(アンハルト=ツェルプスト侯というドイツの小領主出身)が聡明だというので擁立された。これが、エカテリーナ2世である。
ヴォルテールの友人で典型的な啓蒙君主だった彼女が、ロシアを近代国家にしたが、私生活においては多くの愛人を持った。とくに、ポチョムキンは私生活でだけでなく政治的にも共同統治者に近い存在だった。そののちの皇帝は、革命時に殺されたニコライ2世に至るまで、ピョートル3世とエカテリーナの間の子であるパーベルの男系の子孫であり、イギリスなどの王室と縁組みを繰り返した。
最後のニコライ2世の皇太子は血友病に悩まされ、それが怪僧ラスプーチンの跳梁を許したが、この血友病はヴィクトリア女王に始まるものだ(突然変異によるといわれる)。このアレクセイは皇帝とともに殺された。
そこで、皇位継承権を引き継いだのは、ニコライ二世の弟ですでに亡くなっていた、ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年-1909年)の子孫たちとなった。
キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年-1938年)は、1924年にロシア皇帝位の継承を宣言し、それは、その子の、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年-1992年)、ウラジーミルの娘であるマリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年-)と引き継がれ、その夫であるミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)との子であるゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年-)がプリンスである。
このほかに、ニコライ一世の子、ニコライ・ニコラエヴィチの系統が継承権を主張してきたが、ドミトリが2016年に死去してどうなったのだろうか。