保守派が見失った垂直軸

潮 匡人

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最近とくに若い世代で「保守」を自認する日本人が増えてきた。ただ、同じ「保守」でも、論者によって、その主張は一様でない。ある者は、日米同盟の死活的重要性を語り、ある者は反米路線を掲げる。いわゆるLGBT法や防衛増税についても賛否が分かれる。保守vs.リベラルの対立より激しい。

私も長く「似非保守」と罵倒されてきた。そう呼んだ連中はみな、自身こそ「真正保守」「愛国保守」などと称して恥じない。

オークショットの名著『政治における合理主義』(勁草書房)を借りよう。

保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、(中略)理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。(中略)保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。

何であれ、声高に叫ぶなら、その姿勢自体が保守的でない。それこそ、リベラル進歩派の習性である。

「進歩の理念は、その期待を死の上に置く。進歩は永遠の生ではなく、復活でもなく、未来による過去の永遠の破壊、後続の世代による先行の世代の永遠の抹殺である」

「この進歩の理論および進歩の希望と直接に関係しているのが地上楽園のユートピア、地上の至福のユートピアである」

(ベルジャーエフ『歴史の意味』白水社)。

保守を任じるなら、けっしてユートピアを構想してはならない。

保守思想は垂直軸を持つが、リベラル陣営は水平次元でしか生きられない。私は一貫して、そう主張してきた。垂直軸とは何か。あえて丸山眞男を借りよう(以下の太字強調は潮)。

天皇は万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。欽定憲法は天皇の主体的製作ではなく、まさに「統治の洪範を紹述」したものとされる。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのである。(中略)天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。(「超国家主義の論理と心理」)

評価はさておき、少なくとも太字で強調した表現は言い得て妙である。私の「垂直軸」という表現も丸山眞男に倣った。垂直軸は「無限の古にさかのぼる」歴史伝統という大地にしっかり根を張る大樹である。だから苦難に耐え、倒れることを知らない。四方に伸びた枝には豊かな葉が生い茂る。希望に向かって、永遠に伸びていく。そう信じて、ともに耐え、それぞれの場で練達するのが、正統的かつ保守的な姿勢ではないだろうか。

福田恆存は「私の保守主義観」と題した文章を、こう書き出した。

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ。私の言ひたいことはそれに尽きる。

そのうえで、こう書いた。

保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはありえないことを言ひたいのだ。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである。

そして最後をこう締めた。

保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい。知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随ひ、素手で行つて、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか。

私も、そうした思いを込めて、6月16日に可決成立した「LGBT法」への疑問を、「産経新聞」(6月18日付朝刊)に寄稿した。「保守」派の議員諸侯を念頭において。

小林秀雄も借りよう。「知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした」と書き出し、「この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと見える一座の雰囲気が、どうしても理解出来なかった」と「お月見」の様子を描きながら、こう書いた。

この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。(中略)意識的なものの考え方が変っても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。新しい考え方を学べば、古い考え方は侮蔑出来る、古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方が得られる、それは無理な事だ、感傷的な考えだ、とやっとはっきり合点出来た。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、随分手間がかった事になる。妙な事だ。(中略)お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。(「お月見」)

最後に、欧米では有名なニーバーの「冷静を求める祈り」も掲げよう。

神よ、変えることのできないものを受けいれる冷静さをわれらに与えたまえ。

変えることのできるものを変える勇気を与えたまえ。

そして、その両者を識別する知恵を与えたまえ。

われわれに必要なのは、こうした冷静さと、勇気と、知恵ではないだろうか。天を仰ぐ、祈りにも似た姿勢ではないだろうか。

間違っても、「知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心」ではあるまい。さる6月16日の出来事は、「保守」派議員らが見失ったものを、白日の下に晒す結果となった。