オーストリアで現在、誰がノーマル(普通、正常)かで論争が湧いている。国民が熱中症で突然、哲学的になったわけではない。同国ニーダーエスターライヒ州のミクル=ライトナー知事が先月、「私はノーマルな国民の為の政治をしていきたい」という趣旨の発言をしたのが契機となって、「それでは誰がノーマルではないのか」といった議論が生まれてきたわけだ。
まず、少し説明する必要があるだろう。なぜ「ノーマル」といった言葉がそんなに問題となるのかについてだ。その際、どうしても同国の暗い歴史を振り返らざるを得なくなる。オーストリアはアドルフ・ヒトラーが生まれた国であり、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺を想起しなければならない。ヒトラーはアーリア人優生思想の信望者であり、アーリア人種以外は「ノーマル」(正常)ではない、といった考えの持ち主だったことはよく知られている。だから、オーストリアで「ノーマル」という言葉を使用すれば、どうしても当時の時代が重なってくるわけだ。
「ノーマル」という言葉を使ったミクル=ライトナー州知事に最初に苦情を述べたのが「緑の党」のコグラー党首(副首相)だ。コグラー党首は、「そのような言葉を使用する者はファシストの前段階の人間だ」と批判したのだ。同党首は障害のある娘さん(養子)がいることもあって「ノーマル」という言葉の意味にことさら敏感に感じたのではないか。メディアでも突然、「何がノーマルか、そうではないのか」といった哲学論争で騒がしくなってきたのだ。
第77回ブレゲンツ音楽祭でヴァン・デア・ベレン大統領は7月19日の開幕式で、「一部の政治家は恣意的に国民を分裂させるような言葉を使用している。言葉を差別に使用してはならない」と、国内のノーマル論争に一石を投じたのだ。同席していたネハンマー首相(国民党)は「緑の党」出身の大統領の批判を受け、「わが国で現在、ノーマルという言葉について議論が湧いているが、『ノーマル』という言葉を禁句のように主張する意見には同意できない。私は今後もノーマルな人間の一人として生きていく」と述べ、大統領の批判に反論した。
ちなみに、野党の「社会民主党」(SPO)のバブラー党首は、「わが国を分裂させているのはノーマルとかアブノーマルといった言葉ではなく、現実の分裂だ。国民の1%が国の富の半分を独占している現実社会こそ分裂しているのだ」と強調している。SPO党首の発言は正論と言わざるを得ない。
国民の生活は厳しさを増している。政治家たちは哲学論争をしている時ではない。インフレの高騰、エネルギー代の急騰で国民は苦しんでいるからだ。野党議員は、「国民党と緑の党の与党間の哲学論争は物価対策やエネルギーコスト問題など本当の問題をカムフラージュするものだ」と批判しているほどだ。
言葉は人を傷つける場合がある。他者を批判する意図がないのに、傷つける場合もある。それだけに、特に公人の立場にある政治家は発言に気を付けなければならないわけだ。
「ノーマル」ではなく、別の言葉だったら議論を呼ぶことはなかったかもしれない。先の州知事は後日、「ノーマルとそうではない人間と言うべきではなく、ノーマル(普通)な人間と過激な人間といえば良かった」と述べている。「ノーマル」という言葉はオーストリアではどうしても歴史と重なってしまうのだ。
そこで夏の束の間の論争で終わらせるのではなく、何が「ノーマル」かについて真剣に考えるチャンスと受けとることができる(「再考『正常化とは、自由とは何か』」2021年5月30日参考)。
新型コロナウイルスのパンデミックの時、ロックダウン(都市封鎖)、マスクの着用など厳しいコロナ規制下で国民は苦労した。コロナ禍が早く過ぎていくのを待ち望んだ。その時、国民もメディアも異口同音に「一刻も早くノーマルな日々を」と、新しいノーマルな生活に戻ることを願ってきた。その時、多くの国民は「ノーマルな生活」「ノーマルになりたい」といって「ノーマル」という言葉を使用したが、誰一人、政治家もメディアも「ノーマル」という言葉に反発したり、今回のように議論を呼ぶことはなかった。
ポスト・コロナ時の「ノーマル」はコロナ禍の「ノーマル」とは明らかに違う。「ノーマル」は「ノーマルではない」という反対語を意識しているから、状況によっては差別語と受け取られる。「ノーマル」を失う時、失った人は、その価値がより分かるものだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年8月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。