「風評」とは「世間であれこれとりざたすること」との意味だが、そこで「とりざた」されるのは大概はマイナスイメージの事象である。つまり、風評の題材は「好評」ではなくて「悪評」であり、しかも多くの場合、それは事実関係が正確でない単なる「噂」である。
福島や近県の漁業関係者が、その「風評」がご当地水産物の販売に影響を与えるとの懸念から、反対してきた「福島処理水」の海洋放出が24日、始まった。21日に岸田総理と面会した全国漁業協同組合連合会(全漁連)の坂本会長との次のようなやり取りを受けての政府の決断だった。
岸田総理:漁業者の「これまでどおり漁業を続けたい」という思いを重く受け止めている。国として海洋放出を行う以上、安全に完遂すること、また安心してなりわいを継続できるよう必要な対策をとり続けることを、たとえ今後数十年の長期にわたろうとも、全責任を持って対応することを約束する。
坂本会長:国民の理解が得られない処理水の海洋放出に反対であるということはいささかも変わりはない。科学的な安全性への理解は、私ども漁業者も深まってきた。しかしながら科学的な安全と社会的な安心は異なるものであり、科学的に安全だからといって例えば風評被害がなくなるわけではない。
この面会の後の記者会見で、西村経産相は以下の様に述べて、翌22日の関係閣僚会議で「安全性や風評対策の確認などをしたうえで、放出を始める時期を判断する」と述べていた。
全漁連の会長からは「IAEA=国際原子力機関の報告書や安全性の説明を通じて理解は深まった。子々孫々まで安心して漁業を継続できるよう、今後、数十年の長期にわたっても国の全責任において必要な対策を講じ続けることを求める」。また福島県漁連からは「廃炉の安全な完遂と漁業の継続が確認されることで理解は完了し、約束は果たされたことになる」という声をいただいた。・・以上のような意見交換、漁業者の皆さんの声を踏まえ、関係者の一定の理解を得たと判断をした。
が、放出の開始は、24日の「朝日新聞」が「中国の全面禁輸『想定外』 政治問題化する処理水放出…不信募る日本」との見出し記事で報じる事態を招来した。中国税関総署が24日、日本産の水産物輸入を同日から全面的に停止すると発表したのだ。
岸田総理は24日夕、中国が日本の水産物の全面禁輸を決めたことに関して、科学的根拠に基づいて専門家同士がしっかり議論を行っていくよう、中国に対し強く働きかけていくと語り、外交ルートで即時撤廃を求める申し入れを行ったことを明らかにした。外交努力の継続はもちろん必要だ。
だが筆者は、中国が今回とった「日本の水産物の全面禁輸」は、不動産バブルの崩壊懸念や若者の極めて高い失業率、そして住民を蔑ろにした水害対応など、露呈しつつある習近平の様々な失政への国民の憤りを外に向けようとする余り、返って日本国民を団結させるミスを犯したと考えている。
21年4月の拙稿「福島処理水海洋放出:これなら風評を日本全体で担える」で、筆者は日本列島を取り巻くすべての「内水」に巨大タンカーを使って処理水をグルっと一周放出する、という少々荒唐無稽な提案を書いた。
その心は、福島とその近県の人々だけでなく「日本人全員が風評を担う」ということだ。2,700億円(17年のデータ)の輸出水産物を「1億国民で割れば一人1年で2,700円」、つまり、「毎月225円ほどを水産物の消費に回すだけで賄える金額」であり、「皆が団結すればいともたやすい」と書いた。
水産庁のHPに日本の水産物の輸出入データが載っている。それに拠れば19年の輸入総額は1兆7404億円、輸出総額は2872億円であり大幅な入超。対中国では輸入が3150億円(18.1%)、輸出が486億円(16.9%)を占める。香港へは輸出が主で856億円ある。
対中輸出のうちホタテが268億、カツオ・マグロ(以下、カ・マ)類が15億、対香港は真珠が329億、ナマコ調整品が208億、ホタテが32億、カ・マ類が14億。実にホタテの67.2%、真珠の86.6%、ナマコ調整品の90%が中国・香港向けだ。他にホタテガイ調整品76億、ナマコ41億あるがこれも多くが中国・香港向けだろう。
一方、中国からの輸入は、イカが290億と輸入額全体の45.5%を占める他、カ・マ類が242億と全体額の12.7%を占める。この二品目で542億なので、残り2618億の輸入水産物がある計算だが、水産庁資料では詳細は不明。
さてそこで、中国による水産物全面禁輸にどう対処するかだが、一つは対抗処置だ。水産物も対中国・香港では輸入3150億(香港含まず)vs. 輸出1342億と大幅入超。就いて、イカはベトナム・タイ・ペルーからの輸入に切り替え、カ・マ類も台湾・韓国からの輸入を増やすと共に、食べるのを少し我慢することだ。
二つ目は中国・香港への輸出品を、イカやカ・マ類の代わりに国民が食べること。ホタテやナマコは各家庭が月に一度は食卓に乗せることだ。回転寿司でホタテの握りを時々食べるだけでも支援になる。真珠については、口に入れるものではないから中国もこっそり輸入し続ける可能性がある。
岸田政権はここにこそ公金を使うべきだし、パイナップルの禁輸にもめげなかった台湾の蔡政権のやり方も参考になる。故安倍総理のパイン押しは良く知られるが、筆者も当時300㎏ほど買って親類縁者に配ったり、知人に斡旋したりした。
何しろ習近平はやることがセコい。先般もパインの顰に倣って台湾マンゴーを禁輸したが、マンゴーシーズンはもう終わりだし、その対中輸出は0.5%に過ぎない。しかも輸入数量の情報は中国国民には遮断して、やってる感だけを国民に喧伝する。
しかし台湾も強かだ。中国は大陸依存度の高い台湾の農産物の輸入禁止を政治手段として使って農家を脅して来たが、台湾は新たな市場の開拓などに注力し、中国への輸出依存度は18年の23.2%から22年には12.9%となり、23年7月時点では過去最低の9.1%まで低下している(23日の「台湾国際ラジオ」)。
豪州の対応も大いに参考になる。16年頃から、中国による豪州重要インフラへの投資や内政干渉、南シナ海や南太平洋への進出などで悪化していた豪中関係は、20年4月にペイン外相やモリソン首相が武漢でのコロナウイルス感染拡大への中国当局の初期対応などを調べる独立した検証作業の必要性を主張した。中国側はこれに激しく反発、翌月に牛肉の輸入停止や、大麦への追加関税措置、国民に向けた豪州への渡航自粛要請などの措置を次々と打ち出した(防衛研究所 佐竹主任研究官の論考)。
佐竹氏は、この20年8月の論考で、中国にとっても「依然として魅力的な一次産品の供給先であり、また観光や留学先でもある」豪州が、「輸出・輸入双方における中国への依存を減らすために、貿易やサプライチェーンの『多角化』に向けた動きや国内の生産力の強化に向けた経済改革を、この先進める可能性を示唆した。
結果、中国は今春、2年にわたり続けた豪州産石炭禁輸の一部解除を検討し始め、この8月4日には中国商務省が豪州産大麦への制裁関税を5日に撤廃すると発表するなど、妥協に転じている。
これらの事例が示しているのは、中国の横暴には、国民が一致団結して時の政権の方針を支持し、毅然とした態度で臨むことの大切さだ。今般の「全面禁輸」によってこの「風評」を福島とその近県のみならず、1億2千万の日本国民全員に背負わせてくれた中国に礼を言おうではないか。