何が真実かを問う意味も失う
この7、8月ほど歴史の実相が集中的に姿を現した年も珍しいと思います。あらゆる分野でこれまでの行動規範が急激に変わり始め、何を信じてよいのか、何が真実なのかを問うことが虚しくなる夏になりました。これから列挙するのはほどんどがこの夏の出来事です。
「規範」とは何か。「判断、評価、行為などが依拠する規則、基準である。法規範、社会規範がその典型であり、道徳、倫理も規範の一種である。人間の社会集団におけるルール、慣習も一つでもある」との説明、解釈が一般的なようです。
学校教育では「人は正直でありなさい。正しいことをやりなさい」と、教えます。そんな教育がバカバカく感じられる時代になってしまいました。むしろ「見破られない嘘のつき方」、「嘘をついてでも人との論争に負けない弁論術」を教えたほうがよいのかもしれない。
デジタル化が進み、情報戦略も高度化し、「フェイクニュース(虚偽報道、事実と異なる情報)の見分け方」が強調される時代です。それもバカバカしい話になりました。「リアル(現実)」の次元でも、政治的リーダー、政府当局者、企業トップが平気で「フェイク情報、フェイク政策」をぶちあげるようになってきたからです。
デジタル空間におけるバーチャル(仮想的)なフェイクニュースと、リアル(現実)な次元におけるフェイクニュースが混在し、両者を分けることにあまり意味がなくなってきった。つまり当事者が発言したという意味では事実であっても、発言の内容そのものがフェイクである。
最も嘘をつきまくってきたのがロシアのプーチン大統領です。ウクライナ侵略の大義名分、目的も嘘で塗り固められてきました。そのプーチンが盟友でもあったはずの民間軍事会社創設者・プリゴジンを搭乗していたジェット機もろとも撃ち落とし、米欧情報筋は「殺害」との見立てです。
そのプーチンは「プリゴジンらの死亡が確認された。家族に深く哀悼の気持ちを表したい」と、述べました。「殺害しておきながら、よくいうよ」と思った人が多いでしょう。
プリゴジン殺害は全体像の中では寓話の一つにすぎず、東西冷戦がソ連敗北で終結し、屈辱を感じてきたプーチンは、「多極化する世界における一つの『極』としての行動を志向するようになった」(高橋杉雄氏)。
「多極化する世界における一つの『極』への志向」、そのためにはウクライナという他国の領土の侵略も躊躇しない」という解釈です。ウクライナは独立した主権国家として国際社会の承認を得ているのに、プーチンは平然と侵略に踏み込む。同じような領土侵略が今後、どこかで起きる。
知った上で平然と嘘をつくのは中国の習近平政権も同じでしょう。日本は福島原発の処理水の放出を始めました。IAEAは「国際的な安全基準に合致している」と認定しているのに、中国は「核汚染水」と呼んで、科学的根拠も示さず、不安を煽っています。
しかも、各国の原発からもトリチウムを含む処理水が排出されており、中国も自国の原発(秦山第3)からそうしています。トリチウム放出量は福島の数倍になるのに、日本だけを非難しています。
おまけに日本からの水産物の輸入を全面的に停止する。日本近海がそんなに汚染されているというのなら、「中国漁船も日本海への出漁を停止すればよい」という批判が飛び出しています。とにかく日本に外交的な攻撃を加えることに役立つのなら、事実はどうでもいいと考える。正義とは道義的、倫理的な正しさではなく、国益の拡大、維持の意味になっていく。
中国は米国から世界の覇権を奪いたいらしい。その中国は中国主導でBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)に6か国(サウジ、イランなど)を加えた構成にすることを決めました。米国に対する新たな対抗軸にしていくと、米中2極構造では解けない世界構造が出来上がっていく。これまでの世界秩序の規範とは異なる姿に変化していくのでしょう。
ロシアのウクライナ侵略は、米欧日など西側民主主義国の結束を目覚めさせる結果を生んではいます。実際には、「民主主義国の結束」という一つの規範を唱えていればいいというものではなくなっています。世界を見渡せば、民主主義国を非民主的な独裁政権、専制政権の国家の数が上回っている。民主主義国のほうが劣勢というのが実相です。
おまけに、最大の民主主義国の米国で、トランプ前大統領が連邦議会占拠を扇動した事件、大統領選の結果を覆そうとした事件などで、連邦大陪審は3度目の起訴に踏み切っています。起訴されても次期大統領選に出馬する。日本では考えられないことです。しかも支持率は出馬予定の候補者の中で最も高い。「米国は民主主義の規範」といえなくなってきました。
日本はロシア、中国のような国際的な批判を浴びる行動はとっていません。では日本の民主主義はどうなのかというと、毎年のように衆参選挙を含む大型選挙を行い、その度に財政を膨張させ、主要国最悪の財政状況を招いています。民主主義の軸になる選挙という装置が財政悪化を招く。
まもなく来年度予算の概算要求額が発表されます。来年度予算は3年連続で110兆円を超えることが確実です。民主主義社会の基盤であるべき財政の持続性が棄損されている。選挙が民主主義を棄損する。「民主主義は国家の規範である」と言えるほど、単純な状態ではなくなっています。
さらに政府、自民党は「財政再建の旗は降ろさない」というばかりで、その中身をみると、実現不可能な数字が並んでいます。国家自らが「フェイクニュース」になりかねないことを政策として掲げる。それが当たり前のようになってきました。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2023年8月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。