家康を滅亡の危機から救ったのは島津軍団だった

「どうする家康」は、ラグビーのワールド・カップ中継でお休みだったが、先週のところまででは、家康が石川数正の出奔のために危機に陥ったが、天正大地震で、秀吉は戦争どころでなくなり、家康に妹の旭姫を夫人として送り込み、有利な条件で家康は和睦できたと描かれていた。

だが、私は島津氏による九州制覇が近づき、東国どころではなくなったためと思う。それについて、南蛮人による植民地化を心配してのことだと言う人もいるが、そんな危険はそもそもなかったのでありえないと思う。

そのあたりについて、「【どうする家康】秀吉が「家康の殲滅」を諦めた“大地震ではない”本当の理由とは?」という記事を別のところで書いたのでご覧頂きたいが、ここでは、その補足をしておきたい。

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小牧長久手の戦いなどというから、豊臣陣営 vs. 織田・徳川陣営の戦いであることが忘れられがちだが、小牧長久手の局地戦など豊臣軍の二回の表の攻撃が盗塁失敗で零点で終わった程度のことである。

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

信雄は領地の半分くらいを占領されて、財政的にも行き詰まったのであっさりと和解した。家康は粘ったが、紀伊、四国などを抑えられ、上杉との同盟もできたので、万事休すだった。

もし天正地震がなかったら、豊臣軍に攻め込まれて、岡崎城は守れず陥落。浜松城からも退いて、天竜川あたりを防衛線にして北条たのみで有利な和平を探るしかなかっただろう。

秀吉は長宗我部とは土佐一国を安堵、島津は薩摩、大隅と日向半国で手を打っているから、徳川に駿河、遠江、運が良ければ三河の一部くらいというくらいに押し込まれ、信濃と甲斐は取り上げられたと思う。

そもそも、信濃支配は風前の灯火だった。家康のもとを去ったのは、石川数正と真田昌幸だけでないというところが大切だ。木曽義昌と小笠原貞慶も寝返っていたことが忘れられがちだ。

木曽義昌は武田信玄の娘婿だが、織田方についた東濃の遠山氏らの圧迫に耐えかね、信長に寝返ったことが武田滅亡のきっかけになった。武田勝頼に人質になっていた義昌の母や長男を殺されたが、信長からは木曽谷だけでなく、松本付近を含む筑摩・安曇二郡を与えられた。

本能寺の変の後、義昌は逡巡したが家康の支配下に入った。ところが、家康が松本城を武田信玄以前の領主である小笠原氏に与えたので、秀吉に鞍替えした。さらに、小笠原氏も石川数正に道連れにされて豊臣方に転じたのである。そうなると、上杉も関東に攻め入ったかもしれない。

旭姫を正室にすることを家康が嫌がったとドラマでは描かれがちだが、嫌ならもらう理由などないからおかしな話だ。断ることは可能だった。

人質としても意味があるが、それより、兄弟として遇せられることが大事だ。戦国時代でも江戸時代でも、親戚になると官職などで得をする。

家康はこの結婚のお陰で、秀吉の弟の秀長と同格に扱われることになった。

五大老の一人宇喜多秀家は、前田利家の娘で秀吉の養女だった豪姫の婿だったので、中納言になり毛利輝元や上杉景勝と同格になったのである。

九州のことは、上述の記事に書いたとおりだ。九州を島津に統一されては、南蛮貿易も独占されるし、事実上の半独立国になる。これは阻止しなければならなかった。

ただし、植民地化の危険を防いだなどというのは嘘だ。そうしたものが出てきたのは19世紀になってから。16世紀から19世紀から西洋は日本と同じように進歩しなかったと勘違いしている馬鹿な人が多すぎる。

本稿の内容は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)に詳細を書いてある。