ジャニーズ問題から考える「忖度」と独占禁止法

これまでのいくつかの論考で筆者は、芸能とメディアに係る独占禁止法上の問題を論じてきた(例えば「公取委がジャニーズ事務所を注意 〜「圧力」とは何か?」)。その中でキーワードとなるのが「忖度」だ。忖度とは相手の心情を推し量ることで、特に当事者間の力の強弱は問題ではないはずだが、今では弱い者が強い者に隷従するような意味で用いられている。

この忖度という行動、態度は独占禁止法上、どのように扱われることになるのだろうか。

忖度を通常の意味、すなわち他者の思いを推量するという意味で用いた場合、競争事業者間でそのようにし合えばいわゆる暗黙のカルテルの問題になる。つまり相手がいくらで価格を付けそうかを推量して自社の価格を決める。そのような状況が相互に成り立っている場合、独占禁止法上の問題が生じ得る。

ただ、例えば、物価が上がったとか、法律が改正されたとか外部環境の変化についての情報が共有された結果、お互いに相手の出方を推察して自らの競争行動を決めただけの場合には独占禁止上問題視されないはずだ。というのはそこに意図的な、人為的な市場過程の歪曲がないからだ。

これはただの並行行為であって、競争制限とはいわない。問題になるのは事業者間の情報交換等によって、競争的な状況から非競争的な状況へとその市場過程を歪める場合である。発注者が競争関係にある複数の受注側業者に、その求める仕様に関する情報を提供し、あるいは地元業者を優先するといった意向を示した結果、競争が一定程度制約を受けたとしても、それは受注側業者が意図的に市場過程を歪めることとはいえない。

ジャニーズ事務所 Wikipediaより

今、ジャニーズ事務所をめぐる一連の問題で焦点が当てられているのは、取引当事者間における忖度の問題、それも今風の理解における忖度だ。テレビ局を中心とした大手メディアがジャニーズからの取引停止、取引排除を恐れて、その意向を暗黙のうちに汲み続け、その結果、ジャニーズを辞めたタレントや競合事務所の男性アイドルを番組に出さないという行為に出るということだ。

確かに芸能事務所からの露骨な圧力は確認できなかったし、そのような言質も取れなかった。だから公正取引委員会は「注意」を超えた対応ができなかった。そういったところだろうか。

今から4年前の注意の事案では、違反行為の疑いすらなく、その将来の可能性があるに過ぎないとしてこうした対応にとどまったと筆者は理解していたが、当時の杉本公正取引委員会委員長は、あるインタビューで、「公取が芸能プロダクション側、テレビ局側の双方を調査して、独禁法違反とするまでの確定した証拠までは得られなかったが、いろんなことを総合すると独禁法違反につながり得る行為があると判断した結果です。」と微妙な言い方をしている(「元SMAPの3人めぐって…公正取引委員会がジャニーズ事務所を「注意」した真意とは」)。

「注意」というよりも、違反の疑いを窺わせる「警告」に近い理解だったのだろうか。杉本委員長は続けて以下の通り述べている(同インタビューより)。

「優越的地位の濫用」のおそれがあるからですね。例えばの話ですが「脱退したメンバーを番組に出演させたら、もうあなたの局には所属タレントを出しませんよ」と事務所が圧力をかけたとすると、事務所を独立した芸能人の方は自由な活動ができなくなります。これはマーケットパワーの強い事務所が、新規参入の事務所、あるいは個人の活動を制限する行為ですよね。つまり、市場において優越的地位にあるものが、自由な競争を阻害する行為となる。

当時の報道では「取引妨害」であるかのように聞いていたが、公正取引委員会は優越的地位濫用規制を念頭に置いていたという。「マーケットパワー」という言葉を出すことが適切かは措いておき、そういう強い地位を不当に利用したケースだという理解は多くの読者のイメージ通りだろう。

「いろんなことを総合すると」の考慮要素の中にメディア側からの忖度も含まれているのであろう。この事案で多くの識者はあたかも「黒」であるかのようにコメントしていたが、筆者はむしろそれでも「注意にとどまった」事情の方に興味を持つ。まさか公正取引委員会が、同事務所が「違反の事実はありません」と言い訳できるように、その立場を忖度したという訳でもあるまい。そうであればそもそも何もしないはずだ。

弱い者がそのように強い者に隷従するといった意味を伴った忖度は、露骨な圧力がある場合よりも実は強固な支配構造の下でなされることが多い。露骨な圧力は「脅し」をかけなければ相手が従属しないからそうするのであって、いわばチンピラの恫喝みたいなものである。しかし、相手に生殺与奪の権利を握られているような場合には、明示的な脅しなど必要ない。むしろ優しい、いい人を演じているだけで十分だ。勝手に忖度して自らの思うように行動してくれるからだ。

こちらの方が遥かに優越的地位の認定は容易だろう。しかし、劣位にある事業者は忖度する、言い換えれば表面的には「自ら求めている」ように振る舞っているので、それは健全な競争過程の上にあるように見えてしまうのだ。

相手を慮って先回りして相手の喜ぶ行動をすれば、常に友好的に振る舞ってもらえる。それはギブアンドテイクの関係にも見えるが、強固な支配関係にも見える。だから独占禁止法上の評価が難しいのである。極端な支配の方が独占禁止法上の問題にはなりにくい、ともいえる。

今となってはこの事務所がどうなるかがまったく見通せないので、独占禁止法が同事務所にどう係るかを論じる実益はないかもしれないが、しかしながら、芸能や音楽、あるいはプロ・スポーツも含めたエンタメ業界には、代理店も含めて、同種の問題が多数存在するのではないだろうか。

どのような産業であれ支配的事業者は競争を排除したがるものだ。なぜならば競争は自らの地位を脅かすからだ。だからあの手この手で取引相手を支配し、競争者を排除し、結果、市場を席巻しようとする。一度支配を構築すれば、それが崩れないようにさらなる手を打ってくる。

競争優位がその事業者の魅力に支えられているのであればよいがそうでない場合、それは競争過程を歪める力の存在とその行使として独占禁止法の登場となる。しかし強すぎる支配の場合、かえって強権の発動は難しくなることがある。

独占禁止法の話からはずれるが、先ほど「相手に生殺与奪の権利を握られているような場合には、明示的な脅しなど必要ない。むしろ優しい、いい事業者を演じているだけで十分だ。」と述べたが、元社長の性加害問題のポイントもこの構造にあるのではないか、と、最後に指摘しておきたい。

強すぎる支配の構造が問題を根深いものにしてしまった。忖度することすら知らない少年たちへの加害、忖度することで問題を見て見ぬ振りした大人たちのメディア。絶対的な存在であるが故に、性加害があっても抵抗できないばかりか、一部においてはそれを自分の中ではなかったかのように振る舞う思考の停止、誰にも相談できない孤独、歪んだ集団心理、一方では優しい指導者として愛着を抱いてしまう心理。非常ボタンを押して離脱した、あるいは追い出された人々が抱える深刻なトラウマ。

もし私がテレビのコメンテーターとしてコメントを求められたとしても、短い時間で適切にコメントできる自信がない。