知るということ

『論語』の「為政第二の十七」に、孔子が弟子の子路(由)に知るとは如何なることかを教える場面があります。曰く、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是(これ)知るなり」とのことです。

人間というのは、知っているつもりで意外と知らないものです。プラトンも『ソクラテスの弁明』でそういうことを言っていますが、結局どんどん突き詰めて行くと何も分かっていなかったということが分かります。だから孔子は、「自分で確かめ、考えて本当に知ったことを知ると言う。世間一般の常識や情報に従っただけで、自分ではっきり考え抜いたわけではない知識は知るとは言わない。此の二つを厳しく吟味することが知るということなのだ」、と言っているわけです。

世の常識など往々にして変わるものです。例えばコペルニクスが出てくる迄は、地球が太陽の周りを回っているはずはないというのが世間の常識でした。此の天動説が彼により地動説へと大転換し、それが新常識となったのです。

我々人間は世の事柄につき殆どを知らぬままに生きています。どれだけ科学技術が発達しようが、台風や地震など未だ対応出来ていません。宇宙がどれだけの大きさか、人間が如何にちっぽけな存在であるか――我々は造化(ぞうか…万物の創造主であり神であり天)に対し極めて無力である、ということを知ることが何事において大前提だと思います。

所詮、人知人力の及ぶ所は限られています。此の地球上には食物連鎖という絶妙なバランスの中で、様々な生物が夫々に生を育んでいます。また日が昇り朝が来て日が沈み夜が来る、というサイクルが何億年・何十億年と繰り返されています。こうした類を単なる自然現象と捉える人もいるでしょうが、私はそこに造化の働きがあるものと考えます。

「天の無限なる偉大さに感じた」古代人の一人、孔子も「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る」(『論語』)と言い、天を畏れ敬っていました。何か絶対的なものの力が自身の力の限界を遥かに超えている、という認識を有していたのです。天そのものの存在を認めないがため天も天命も恐れることはないという人もいますが、我々が生きている此の現実世界では想像を遥かに超える現象が実際に起きているのです。

人間、自分の無力さを知っていたらば謙虚な気持ちを持つことが出来ます。「之を後少し調べてみよう、分かる範囲で」となり、何か分かったとしても「それは極一部に過ぎないんだ、追究するぞ」となるわけです。孔子が言うように、常々あらゆる事柄につき可能な限り自分の耳目で十分確かめ、頭で考え抜き峻別して行く姿勢を有することが大事であり、知らぬことを知っているからこそ、謙虚な姿勢で何時何時も探究し続けることが非常に大事なのだと思います。

安岡正篤先生の御著書『東洋倫理概論』の中に、「造化は人を通じて心を発(ひら)いた。心は人の心であると同時に、造化の心であって、(中略)人がもの思うのは、すなわち造化がもの思うに他ならない」と書かれています。ですから、人間が天を知るために何をしたら良いかと言えば、人間を徹底的に究明することだと思います。人間究明こそが造化の心すなわち天意を知るために、我々が求められるのだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年9月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。