「どうする家康」のような大河ドラマでは、朝鮮遠征を批判的に描かないことは許されないから、秀吉は必ず酷く描かれる。NHKは日本政府の検閲は受けてないが、韓国政府の検閲は実質的に受けているのも同然だ。
もうひとつ歯切れが悪いのが、キリシタン禁止である。ここのあたりも、腫れ物にさわるように避けて描かれる。
そこで、秀吉とキリスト教、さらには、そもそも、どうして日本であれだけキリシタンが増えたかなどについて、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)から関係の箇所の短縮版を提供したい。寧々が語り手である。
時代の風にあっていたキリスト教だが一人の宣教師の傲慢が禍に
わたくしたちが生きていた時代は、世界史でいえば大航海時代でございます。はるかヨーロッパから南蛮人たちがアジアへやって来て、珍しい文物を持ち込み、新しい世界についての知識を教えてくれました。しかし、彼らは西洋との交流だけでなく、東アジアの国同士の貿易も独り占めしてしまいそうでした。
キリシタン禁教令は、イエズス会の初代準管区長に任命された、ガスパール・コエリョという人の軽率な行いが禍したものです。アレッサンドロ・ヴァリニャーノさまは、ヨーロッパの習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法で布教に成功されたのです。
ところが、コエリョはキリシタン大名を支援するため、フィリピンからの艦隊派遣を求めたり、日本全土を改宗させたら日本人を先兵として中国に攻め入るなどと夢想していたそうです。
そして、フスタ船を建造して大砲を積み込み、平戸から出航し、博多にいる秀吉に見せたのです。高山右近や小西行長は心配して、その船を秀吉に献上するようコエリョに勧めましたが、彼は応じませんでした。
この頃、さまざまな人がキリシタンの振る舞いについて、誹謗中傷も含んだ苦言を秀吉に持ち込んでいたところに、コエリョが威圧的な態度を秀吉との会食で見せたために、秀吉が怒って禁教令をだしたのです。
コエリョは布教活動を停止し、マニラのスペイン人に援助を要請しましたが、高山右近のような日本国内のキリシタン大名が秀吉に服従しているので手も出せず、天正18年(1590年)に失意の内に平戸で死んだのは自業自得でございました。
ときどき、秀吉がキリシタンを禁止したのは、放っておくとポルトガルやスペインの植民地にされかねなかったからだ、という人がいますが、それは大げさです。
当時のポルトガルは、ゴアだとかマラッカといった要衝を占領して拠点にしていました。明国ではマカオに居留は認められておりましたが、明の領土のままでした。広い領土を治めるといったノウハウも力も、ポルトガルにはありませんでした。明、朝鮮、日本といった国を治めるなど無理なことでした。
狙っていたのは、キリシタン大名を援助して、布教や貿易を進めようという程度だったのでございます。大村氏は、南蛮船の寄港を増やすために長崎周辺を教会に寄付していましたが、それも秀吉によって返還させられました。
どうしてキリスト教が流行ったかと云うことですが、私たちの時代は、武士も庶民も、古い道徳や秩序にとらわれない自由を手に入れた時代でございました。そういう世相の中では、毒にも薬にもならない古い信仰より、現世利益の教えで京都の町衆たちに力を伸ばした法華宗、蓮如上人の改革で農民たちの気持ちをとらえた一向宗、そして、一神教の論理が清新だったキリスト教などが、時代的な気分に合っていたのです。
しかし、イエス様の教えは魅力的とはいえ、南蛮人たちがそれを梃子に利益を得ようとしているということを、秀吉などは敏感に感じ取りましたし、日本人を外国に奴隷として連れて行くという不愉快な噂も聞こえてまいりました。
そして、そういう不信感が、コエリョという愚か者の浅はかな行いを機に、キリシタン禁止令というかたちになったのです。しかし、それほど厳しいものではなく、本格的な弾圧はオランダが日本にやって来て、カトリックを德川家康さまに誹謗中傷してからです。
船長の法螺で厳しくなったキリシタン禁制
天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出しましたが、その内容は布教を禁止したとは言え、信仰し続けるのは黙認しておりますし、実際、神社や寺を壊したりしなければ、キリシタン大名ですら厳しいお咎めはありませんでした。
南蛮船はあいかわらず来ましたが、いっときの長崎のように教会に土地を寄進したり、日本人をおおっぴらに奴隷にすることができなくなっただけです。
天正20年(1592年)には、スペインのマニラの総督に入貢を要求しましたが、関係が緊張したわけではありません。翌年にはフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、京に修道院の建設が許可され、敵対的なことをしなければ布教してもお咎めはありませんでした。
ところが、天正14年(1596年)7月にマニラを出航したサン=フェリペ号が、メキシコを目指したものの台風に遭って土佐に流れ着きました。領主の長宗我部元親さまは、積み荷を没収したものの船長が抗議するので、判断を秀吉に求めたのです。
秀吉は増田長盛を土佐に派遣し、日本を侵略するつもりがあるのでないかと尋問したところ、デ・オランディアという水先案内人が長盛に世界地図を示し、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服をしてきた。まず、その土地の民を教化し、そののちに信徒を内応させ兵力をもって呑み込むのだ」とお粗末な法螺を豪語をしたのです。
しかし秀吉も、マニラでのスペインの軍事力には限界があって、日本を攻めるなど無理だということを知っていたので、これにひどく驚いたというほどではなかったのですが、こんなことを言われたら、そのままにしておけません。
このために、キリシタン禁制が確認され、京にいた宣教師たちは慶長元年(1597年)12月に長崎で処刑されてしまいました(26聖人)。ただし、船の修理は認められ、無事にマニラに帰りましたが、これを機にフランシスコ会の活動は難しくなりました。
大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛されました。24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回し。長崎で処刑せよということになって、道中でつき添っていたペトロ助四郎と、フランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛されました。
26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名でありました。