今の若者がかわいそうな理由:「我慢も出来ない」と責めてはいけない

私の目線で「若者がかわいそうだ」といえば大方、お叱りの言葉を頂戴するはずです。「それはお前のスタンダードだろう。今の若者は幸せなんだよ」と。「今と昔を比較したところでどうにもならないだろう」と言われればそれまでです。が、私なりに若者との接点も持ちながら思ったことがあります。

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ニッチがない、これが今の社会です。ここでいうニッチとは起業する人がよくいう「ビジネスの隙間」という意味ではなく「社会の隙間」がないという意味です。

私がアメリカに初めて行った1980年。自由の国、アメリカの象徴を感じました。ニューヨークは人種のメルトポット、「アメリカン」という強いアイデンティティと愛国精神を強烈に植え付けられました。90年代、そのアメリカで仕事をしていた時、アメリカに長く住む日系アメリカ人の言動は駐在員として赴任していた私と明らかに別人種でした。「アメリカナイズ」されている、です。「郷に入れば郷に従え」を忠実に守り、アメリカの圧倒的強さを感じたものです。

ある人が私にこう言います。「シアトルのスタバとフロリダのスタバは同じ味だ。NYのマクドナルドもロスアンジェルスのそれもまた同じだ。広いアメリカと移民国家において同じものを供給できるのはアメリカが生み出したマニュアル文化故なのだ」と。日本は当然ながらそれを真似ます。

一方、本国アメリカでは統一されたサービスの中で若干の個性を見せる「おしゃれ度」が出てきたのに対して日本のマニュアルの縛りは更に進化を遂げます。トヨタの工場では流れ作業を効率的に行うために工員の足の踏み出し方までマニュアル化しました。「こう動けば間違いが少なく、効率的に作業できる」と。

北米は法治国家であり、全ては契約社会です。その契約書は年々改善され、分厚くなり、弁護士は契約書にバグ=漏れがないか必死の点検作業をします。契約書は様々なケースを想定しフローチャートの如く「こういう時はこう」といった具合に必ずどこかに帰着するように組み立てます。が、世の進歩と共に「想定外」が起きるため、そのたびにより細かい設定を繰り返す、これが法律文書なのです。

今の若い人は昔の緩かった社会を知りません。何をやってもルールが存在し、そのルールはより細かくなります。飛行機や電車に乗ればアナウンスや注意事項をしつこいほど説明します。ある方が「幼稚園の子供に注意しているんじゃないんだから」と憤慨しますが、あれもダメ、これもダメとアナウンスしないとしない方が逆に指摘を受けるというのもまた事実です。どちらが正しいのか結論も出ず、我々はとても狭い許容範囲の中でささやかな自由度を楽しむしかないのです。

若者が就職した瞬間、枠組みにはめ込まれます。企業によってその枠組みは広いところ、狭いところいろいろです。ある学生が私に質問をしました。「起業したいけれどお金が無いから就職します。何かアドバイスを」と言われたので自由度を求めるなら就職する前にその会社をよく調べて社員がどのように仕事をしているかOBOG訪問で確認した方がいいと。

私の経験則では大企業ほど束縛度が高く、自由度は少なくなります。これは上記の契約書の話で言えば優秀な弁護士が寸分の漏れなく作り上げる社員マニュアルのようなもので、小さい会社ほど自由度は高くなります。

歌を忘れたカナリアとは自分の本分を忘れているという意味です。今の時代、自分の本分を忘れるというより勝手に歌うな、と強要されているようなもので「歌わせてもらえないカナリア」といってもよいのかもしれません。

学生が苦労して就職しても3年3割の退職率の理由は「自分が思っている会社と違っていた」。つまりその会社で我慢していても何一つ変わらないだろう、という若手社員の諦め感とも言えるのかもしれません。それを「最近の若者は我慢の一つも出来ない」と責めてはいけません。仕事が面白かった時代に生きた我々は苦しさの向こうに達成感と充実感がありました。今の仕事のやり方は全体像が見えない闇の中で目先のことだけをやらされている、私にはこんな社会に映るのです。

今の若者がかわいそうな理由です。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年10月1日の記事より転載させていただきました。