世襲議員はバカでない限り当選する

-第2次岸田第2次改造内閣 首相官邸HPより

地盤、資金、知名度の3つが揃えば国会議員になれる

世襲議員がダメなのは何も苦労なく議員になることができるからである。日本で国会議員になるには「地盤」、「資金」、「知名度」の3つが十分にあれば当選する。

2世や3世議員にはこの3つが既に揃っているから余程バカでない限り取り巻き連中の指導に沿って選挙活動をして行けば当選する。候補者自らが票を開拓して行く必要がない。それは初代がつくった後援会がやってくれる。その後援会には市町村議員、県会議員や地元企業などもついている。だから立派な講釈だけたれていれば当選するのである。そのような世襲議員が国会の3分の1近くいる。この度合いが現状の選挙制度が続けばさらに増えて行くだろう。

しかし、問題は一旦当選したあと重要なポストに就くと講釈をたれているだけでは官僚も他の議員も納得しない。特に首相や大臣に就任すると発言内容や振る舞いにも重みのあるものが必要になる。要するに、人間的な魅力を持ち合わせ、相手に威圧感や気迫や情熱を感じさせるものをもっていなければならない。苦労したことのない世襲議員にはそれが備わっていない。それは自分で苦労して初めて身につくものである。

逆に世襲議員は容易に殿様になったものだから自分は偉いのだと勘違いして軽率な発言をする場合が往々にしてある。特に、それが顕著に表れるのは首相や大臣になった時である。今の岸田首相を見れば明瞭だ。彼は首相として相手を威圧するものは何もなく、信念、気迫、情熱、愛情といった人間的な魅力を彼からは感じられない。だから、国家が危機になっても彼に従おうとする国民はいないはずだ。これでは首相として失格である。

ステーツマンの首相は僅か

田中角栄氏は日中国交正常化で北京に赴いた時に、彼に同行した大臣や官僚に「毛沢東も周恩来も死を潜り抜けて来た男だ。だから信頼できる」と言ったそうだ。

田中角栄氏が慕われる理由は早坂茂三氏の著書「駕籠に乗る人担ぐ人」の中で次のような老人の言葉を記述している。「角さんがトンネルを掘ってくれた。道路の雪がきれいに除雪されて、病人がいつでも自動車で診療所に行けるようになった。昔は、戸板に乗せて、村の衆が半日かかりで雪の山道を越え、里の医者に担ぎ込んだ。病人は死んでいた」と。

これはもう政治理論でも講釈でもない。政治家だからできる市民への奉仕である。このような庶民の苦しみを肌で感じて問題を解決して行く。これが政治家として重要な使命のひとつである。それを世襲議員は分かってはいても、市民の苦しみを身に染みて感じることはないであろう、と筆者は思う。特に、政治リーダーには尚更これを肌で感じて必死になって改善しようという精神が必要なのである。

また中曽根氏は彼の著書「二十一世紀、日本の国家戦略」の中で首相がどうして人を動かすのかということについて「何で動くかというと総理大臣の能力、見識、迫力です。国家の為に身を捧げる。自分の生涯を懸け、あるいは政治生命を賭けて身を捧げる。そういうような総理大臣の信念と迫力がまずあって、それが各大臣に移り、官僚や党の役員に移って行くのです」と述べている。更に、彼は「この十年間の政治家を見ると、ある意味において宗教性や思想性を持った求道心というものがあまり見られません」とも語っている。

中曽根氏は風見鶏と悪評もされたが、戦後の首相の中で彼が最後のステーツマンであろう。それ以後の首相にはステーツマンを筆者は観ない。

明治の県令・千田 貞暁(せんだ さだあき)

広島市が中国地方の代表都市となったのも一人の政治家に寄与するものが大である。その政治家とは千田貞暁、1886年に広島県令に就任した人物だ。

広島市は地形的に三角州によって出来ており、太田川が運ぶ土砂によって遠浅で大型船が陸地に接近できない状態にあった。それが原因で広島の産業の発展を傍んでいた。そこで堤防を築きその内側を埋め立てて行くことを決定。築港づくりだ。そのインフラの当初の見積もりは18万円余りとなっていた。それを人造石工法によって8万7000円まで節約できることになった。

1884年9月から工事が開始された。ところが、そこで養殖海苔や牡蠣づくりをしていた漁民が猛烈に反対。千田県令は彼らを説得し、漁民を干拓工事で雇うことを約束。ところが、その一方で、広島で国策として海軍の増強が計画された。その為資材が高騰。しかも自然災害にも襲われた。

それでも同県令の広島の発展にはこの築港工事の遂行は必要だとして2回の国庫補助金を仰ぎ、地元の富豪や県令本人も私財を投入。5年の歳月をかけて工事は宇品(うじな)港として完成した。ところがそれに要した費用は30万円。当初の3倍強の費用であった。それが原因で県令は懲戒を科せられ新潟県知事(その間に県令から知事と呼ばれるようになっていた)に転任させられた。それは竣工式の前であった。

完成した当初は築港の価値は認められなかった。その為、千田氏は批判された。ところが、1894年に日清戦争が勃発すると、中国大陸に最も近い兵站拠点として宇品港の存在が認められ軍用港として栄えた。そのあとの1905年からの日露戦争でも日本連合艦隊はこの宇品港から出向してロシア艦隊と対峙することになったのである。その間、広島には大本営と帝国議会が設けられた。

千田県令の広島を発展させるための信念と情熱の賜物である。1915年に千田氏の銅像が完成し、1925年には千田神社がたてられた。その地域は千田町と名前がつけられた。残念ながら、今では千田氏について広島の市民の多くはもう知らない。何しろ、70年代頃からは親も学校も子供たちに彼の偉業ついて教えないからである。筆者は宇品出身で帰国すると必ず千田神社を参拝して、そこでひと時佇むが、神社の前を通り過ぎて行く誰もが銅像と神社の前をただ素通りして行くだけである。神社に向かって会釈さえしない。

日本の首相たる人物は千田氏のように信念、情熱、気迫、愛情など人間的な魅力を身に着けているべきである。筆者の友人は「最近の首相は役場の総務課長レベルだ」と指摘した。その通りだと筆者も同感している。