今頃、と言われるかもしれませんが、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか?」を拝読しました。買う時、書店に平積みになっていたこともありますが、この書籍を題材にしたクラスが予定されており、その授業に私が関係しているため、目を通す必要があったのです。宮崎駿氏の映画なども含め、この書籍は最も息が長く、最も売れた作品の一つで、古典文学だけでなく哲学としても高い評価を得ています。
発行されたのが1937年で盧溝橋事件が起き、日本が混とんとしていく時代背景の中での話でありますが、中学生のコペル君の学校での出来事と叔父さんのやりとりを中心に展開する含蓄ある内容です。
私は年50冊程度ですが、コンスタントに何十年も読み続けているので良書かどうかは読みだしてすぐにわかりますが、これは久々にクオリティを感じさせました。
さて、哲学的な考察は別として私が思ったのは描かれている内容が実にシンプルなのです。つまり、社会がとても分かりやすい時代だったのです。もちろん、戦争に向かうという大きな試練の時代でありましたが、社会構造そのものが単純で家族や親戚、友人とのつながりが深く、素直な時代背景を感じたのです。
翻って現代。我々はスマホからひと時も手を離すことはないでしょう。電車を待つ時間もエレベーターに乗っている時間もスマホを見続けています。その姿は異様なのですが、皆がやっているので誰も気がつかないのです。見ている内容は人それぞれでしょう。ゲームする人、ショッピングサイトをスクロールする人、動画を見る人…。しかし、なぜかニュースを読むという人は少ないように感じています。読んだとしても10秒で読み終わるエッセンス記事でそれで世の中が分かった気になっている人も多いのでしょう。
最近、X(ツィッター)ベースの超短編小説集が売れているそうです。小説の全長140字。書けるのか、といえば日本人はお得意でしょう。俳句、短歌を含め、極めて短い文章の中に含蓄を持たせる表現をするのは日本の文化であります。ただ、そんな高尚な目線の話というよりもっと現実的に10数秒で読めるということに若者は価値を見出している気がします。
言い換えると今の人、若者に限らず時間がない中年層を含め、文字を腰を据えて読むなどということは時間がなくて出来ないのではなく、もはやそういう習慣を持ち合わせていないために読めないのです。上述の「君たちはどう生きるか」は長い解説を入れてもわずか339ページ。しかし、書籍を買った人の何%の人が完読したでしょうか?一度アンケートを取ってみたらよいと思いますが、私は5割程度ではないかと思います。買って満足して積読で終わるか途中まで読んで放棄なのです。
情報化社会にいる我々はあらゆる情報が聞きたくなくても聞こえてきます。見たくなくてもスマホが読め、と提示してきます。多くの人はその指示に従うのでしょう。つまり、多くの人は考えることなく、パブロフの犬の如く、スマホを取り出し、その画面を見続けることを3度の飯よりも大事だと感じるようになっています。そして残念なことに不必要な質の悪い情報に振り回されているのです。
禁煙、禁酒と同様、スマホ病を断ち切ることはできるでしょうか?できるでしょう。緊急情報?そんなのは他の人が慌てるのだから何が起きたか聞けばよいでしょう。一秒を争う情報など早々あるものではないし、そんな重要な情報を待つなら外に出なければよい、という情報の断捨離をしてしまうこともできます。
私はスマホは持っていますが、必要な時以外はほとんど見ません。外に出たら考え事をするし、人と会えばスマホはいりません。だからよく家に忘れてきたりしますが、時として忘れたことさえ気がつかないことがあります。意図的に頼らないようにしているのです。
その代わり、自分がやるべきことに集中する、外野の声はシャットアウト、仕事にしろプライベートにしろ今日のプランを充実させる、それでよいのです。確かにシャットアウトしたあとメールチェックするとぞっとするほどメッセージがあります。中身のある仕事メールだけで一日100件は下らない中、その時はそれを一気にやっつける、そしてまたメールもSNSも何時間も見なくなるのです。
シンプルライフのもう1つは「人付き合いの断捨離」もアリだと思うのです。「俺はなぜ、この人、このグループと飯を食い、酒を飲むのだろう?」という疑問は学生の時から持っており、誘われてもその人たちと会う意味を考え、無意味な付き合いは全部お断りしてきています。するとエッセンスの人だけが残る中で新たな人がどんどん紹介されたり、お会いしたりする機会が出来ます。そこに私は悦びを感じるのです。不思議なことに新しい世界がどんどん生まれるのです。
こだわるものと手抜きするもののメリハリも必要でしょう。私は食べる物は貧弱かもしれません。食うのが面倒くさいのです。それよりも書を手にしたいし、運動もしたいのです。買い物はめったに行かず、書物以外はミニマリストを貫きます。10年前にタダでもらったタブレットで雑誌を読み、これまた10年になるノートパソコンは今日も快適、サクサク動きます。
たぶん私は変わり者なのでしょう。いや、昭和の流れのままカナダにきて止まったのかもしれません。カナダで31年、それでも決してローカル化せず、強く日本人を自負し、日本のパスポートを維持する自分の存在はある意味、孤高であり、メンタルではより強くなったと思います。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年11月5日の記事より転載させていただきました。