「どうする家康」は家康の女性蔑視を隠ぺい

ダイヤモンドオンラインに「【どうする家康】“大阪の陣”の裏に豊臣家の不運…徳川・豊臣・織田が「1つの家」になれたシナリオとは?」を掲載したのでそのポイントと補足を紹介する。

【どうする家康】“大阪の陣”の裏に豊臣家の不運…徳川・豊臣・織田が「1つの家」になれたシナリオとは?
大坂方の挙兵を聞いたとき、福島正則が、「時すでに3年早く、3年遅かった」と言ったといわれる。本当に正則がそう言ったかどうかは分からないが、実態はまさしくその通りであった。なにしろ、二条城会見があった1611年に加藤清正、1613年に池田輝政と浅野幸長、冬の陣の年である1614年に前田利長が死去している。

関ヶ原の戦いに勝ったり、将軍になっても、徳川の天下は安定しなかった。豊臣秀頼が成長したら豊臣の天下に戻るべきと言うのがむしろ常識だったのかもしれない。

大阪城 bee32/iStock

家康もそれが心配だから、秀忠は江戸に置き、自分は駿府にあった。これは、天下を秀頼に渡しても東日本は手放さないという意思表示だ。豊臣に天下を渡したくなかった、秀頼が伏見にあって政治をするほうが立場が強くなる。

また、秀忠も夫人は茶々の妹だし、秀頼夫人は千姫だし、息子の家光は出来が悪いのだから無理したくないのも事実だった。だから、家康は秀忠側近の大久保忠隣を豊臣への内通を理由に改易したりした。

さらには、浅井三姉妹など女たちが談合して、徳川・豊臣が両立できる余計な知恵を出ささないように気を配った。

大坂方との外交交渉のなかで家康が最も恐れたのは、徳川と豊臣が両立できるような、いい知恵が出され、それに支持が集まることだった。だから、そういう知恵が出る余地をできるだけ最小化した。

大坂冬の陣が始まる前の春に、北政所寧々の秘書役だった孝蔵主が、江戸に移ってしまった。秀吉のもとで女奉行といってよいほどの辣腕ぶりを発揮した外交交渉の達人だった。

その経緯は謎なのだが、彼女がいなくなったことで、寧々は無力化した。交能力抜群の孝蔵主が寧々の周りにいれば、寧々が余計な動きをするのではないかと心配した家康が、寧々から引き離したのである。

このために、寧々は大坂冬の陣や夏の陣の間、指をくわえて傍観するしかなかった。「どうする家康」では、寧々は家康と関係良好というよりは、茶々への嫉妬から夫の遺言を裏切り家康の天下取りを助けたように描かれていたが、事実ではない。

関ヶ原の戦いでは、むしろ西軍を支援していたし、家康も寧々の実家の木下家を改易するは、豊国神社を破却するなど、ひどい扱いをしたし、大坂の陣を巡る交渉からも排除したので、史実とは程遠い。

夏の陣が終わった後、寧々が伊達政宗に「なんとも申し上げようもありません」と書いた手紙があるのは、そうした無力感がゆえであろう。

豊臣にとって不運は、秀頼と千姫に子どもができなかったことだ。1608年と翌年に秀頼は国松という男子と後の天秀尼をもうけたが、手元には置かなかったようだ。

秀頼に手近な女性と性体験をさせた結果、これらの子たちは生まれたのであろう。その後、新しく子どもができた形跡はないから、秀頼は千姫が成人したのを見計らって子作りに励んでいたのだろう。

1612年に大坂城で、鬢そろえを千姫が行い、秀頼が手伝っているのを侍女が目撃しているが、千姫と秀頼が名実共に夫婦になったのが、このときだと思う。

ともかく、千姫が豊臣家の若君を産めば、互いのメンツをつぶさずに共存することが可能だっただろう。

古河公方と北条氏、京極氏と浅井氏、土佐一条家と長宗我部氏、龍造寺氏と鍋島氏など、この頃は新旧支配者が共存した例もいろいろとあった。

家康は、信長の弟である有楽斎と浅井三姉妹の次女である初(京極高次夫人)を、茶々の代理として徳川と交渉をするように仕向けた。一方、秀忠夫人で浅井三姉妹の末娘である江は、江戸に留め置かれた。「どうする家康」では大坂での交渉に参加して茶々を説得していたが、実際は徹底的に交渉から排除された。

しかも家康は、一見すると大坂方にとって有利な条件を出した。京極忠高(高次の庶子)の陣で行われた交渉で「茶々を人質としない」「秀頼の身の安全を保証し、本領を安堵する」「城中の浪人は不問」といったのだ。

本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めることは、当時の和平では常識的だった。だが、大坂方は、惣堀は徳川方が埋めるが、外堀は自分たちで埋めるつもりだった。つまり、完全破壊までは行わないと考えていた。

ところが家康は、大坂方の工事を手伝うと称して、外堀まで埋めた。しかも、初の義理の子である京極忠高に、その工事をやらせた。

新年になると、家康は浪人たちを許すことは承知するが、城内に置くのは承知しないという無理難題を突き付けた。こうなると、秀頼自身も、あまりにも不名誉な屈服をすることは嫌がったようだ。関ヶ原の戦いの時の織田秀信(三法師)と同じように、幼少の頃から父や祖父の偉大さを吹き込まれて育った若者は、それほど現実主義者には育たないものだ。

ここまでなんとか、和平の道を探っていた有楽斎は見切りをつけて城外に出たが、初は姉の茶々を見捨てられず、最後まで一緒にいることにした。初と一緒に二条城に家康を訪ねた老臣の青木一重は、そのまま留め置かれた。孝蔵主のときもそうだが、家康は交渉力のある人が大坂方にいることを嫌がったのである。