「官製談合が行われていた中で育ってきた」という問題性

新潟県新発田地域振興局発注の公共工事に関する官製談合防止法等違反事件の初公判で、被告人である業者関係者が以下のように述べた。昨年末の新潟テレビ21のニュース記事より。

「官製談合が行われていた中で育ってきた。公正に競争が行われると資金力のある会社が勝つのは目に見えていて地元の経営基盤が弱い会社はつぶれてしまう」

振興局農村整備部長が業者に予定価格を漏洩するなどの行為が官製談合防止法等に違反するとされたのであるが、検察によれば当該部長は業者から「歴代部長も教えていたなどと説得された」とのことであり、部長も「違法なことだと分かっていたが前任者もその前も行っていたと言われてやってしまった」と述べたという(NHK新潟ニュース2023年12月27日)。

この発言を受けて、県は「振興局の歴代の農村整備部長らを対象に聞き取りを行う方針」(NHK新潟ニュース2024年1月6日)、と報じられている。以下、関係者がほぼ事実関係を争っていないようなので、その通りという前提で論じる。

新潟県庁 同庁HPより

制度がいかに変わっても、自治体トップがどんなに「公正な競争を」と旗を振っても、「官製談合が行われていた中で育ってきた」面々の行動を変えるのは容易ではない。

コンプライアンス・マニュアルとかコンプライアンス研修とかやっても、長年蓄積されてきた慣行を止めるだけの力にはならない。おそらく新潟県でもさまざまなコンプライアンスの取り組みを実施してきたのであろう。入札監視委員会も目を光らせていたのだろう。

しかし、このような事件を目の当たりにすると、直近まで「官製談合が行われていた中で育ってきた」人々が綿々と今回のケースのように官製談合を繰り返し、この分野の関係者を新たに「官製談合の中で育てる」ということになってしまう。これにはある種の絶望感を抱く。

発注側担当者に談合や不正を防止しようという姿勢がないならば、コンプライアンスは「いかに隠すか」に向かってしまう。「歴代の農村整備部長らを対象に聞き取り」というが、「官製談合をやったといっている」となるだろうか、それとも「私たちは捜査機関ではないので限界がある」となるか。

官製談合をストップさせるための一番わかりやすい方法は、違反が見つかる可能性(発覚率)を高めることである。仮に100%見つかるのであれば誰もやらないだろう。そういった仕組みは新潟県ではできているか。

もう一つ、見つかったときの制裁を重くすることだ。見つかってもお咎めなしでは意味がない。官製談合防止法に刑事罰が導入されたのは今から20年ほど前であるが、それからしばらく同法違反罪は収賄絡みでない場合にはほとんどが罰金刑で終わっていた。執行猶予付きであるが拘禁刑がスタンダードとなったのはこの約20年の間の後半においてである。しかし抑止効果としてこれで十分か。

地方自治体の発注の場合、談合に参加する業者の多くは地元企業であろう。それは当然の話で、そもそも地域要件(入札参加資格を地元企業に限定すること)が厳しくかかっているのであるから、限られたメンバーの間での競争である。指名競争が一般的で一般競争が一般的でない地方自治体はいまだ多い。そんな中での官製談合である。業者にそこから脱出しようという動機が生じる方が不自然である。

官側の意向に沿うことが業者にとって唯一生き残る方法だと思われてしまえば、関係者の行動が変化する訳がないし、環境を変えようとも思わない。その背景に「公正に競争が行われると資金力のある会社が勝つのは目に見えていて地元の経営基盤が弱い会社はつぶれてしまう」という事情があるのであればなおさらである。関係者は「やむを得ない」という意識なのである。

入札談合が必要悪といわれた時代はとうの昔に過ぎたと思われているようだが、実際はそうでもないようだ。しかしその「やむを得ない」は自分達にとってのものであって、社会全体にとってのものなのか。少なくとも地域住民にとってそうなのか。今一度考えてみる必要がある。そしてもしそうだ、と言い切れるのであれば、なぜ官製談合などする必要があるのか。競争などさせないで随意に契約すればよいだけではないか。制度がおかしいならば制度を変えればよい。

問題は「いっていること」と「やっていること」の乖離にある。「競争させています」といって「競争させていない」。それが有権者、納税者に対する裏切りであり、それが非難されているのである。

嘘の中で人を育ててはいけない。