「教育」をめぐる幾つかの考察

Sensay/iStock

大学統合・再編の現状と課題

大学の生き残りをかけた統合・再編をめぐる動きが活発である。私がかつて勤務していた大学でも、この問題でかなり長い間、揺れ動いている。

当初「合意」されたはずの協定に対して反対の声が大きくなり、統合推進派の学長が慎重派に交代すると共に、風向きが変わってきた。今後の展開がどうなるか、予断を許さない状況がもうしばらく続くだろう。何しろ、私が定年退官した20年3月には「ほぼ決まり」となっていた統合・再編案が、3年半後の今も暗礁に乗り上げているのだから。

なぜ暗礁に乗り上げたかと言えば、当初の再編案に無理があったからだと私は見ている。6学部あった総合大学と単科大学が統合する際に、前者はA地区に4学部、B地区に2学部有していたのを、B地区2学部と単科大学を統合してA・B2大学にする案だったからだ。

しかしA地区の4学部を1大学にしても、単に学部数が減って規模縮小のデメリットしか残らない。当然、A地区から猛然と反対論が興り、結局学長が替わってから、統合後は全部併せて1大学とする案に変更された。そうなると、単科大学からは単に「吸収合併」にしか見えないので、この案は受け入れがたい。だから「暗礁」なのだ。この両案はどうにも両立しないから、どちらかが折れるか破談になる他に解決策は思い浮かばない。さてこの後どうなるか・・?

しかし実は、私の関心事は統合・再編の行方ではない。この話の進め方に違和感があるのだ。いや、この話に限らず、全国で進められている大学の統合・再編に関しては、主要問題は組織をどうまとめるかが主題になっていて、どんな教育をしてどんな学生を育てるかに関しては、ほとんど議論されていない、少なくとも外部には聞こえてこない、と言う点に問題を感じるのだ。なぜなら、大学は、本来的に高等「教育機関」であるから。

例えば、上記の例で言えば、B地区では統合後の「医工連携」のメリットが強調された。しかし研究面ではそう言えるとしても、教育面では、工学と医学では学問の基礎地盤が異なる。工学の中でさえ、機械・電気・化学・土木では基礎教育が違う。それぞれの学問的基盤が異なるからだ。いくら医工連携でも、工学部で解剖実習をやる所は出てこないはずだが、医学部では必須である。つまり、研究段階では多分野総合が必要でも、基礎教育段階では明確な区分けが要る。

私の考えでは、文理を問わず、学問領域として基礎の明確な分野は、少なくとも教育は統合させない方が良いと思う。それぞれの学問領域で、最初の方法論や基礎知識のあり方がキチンと定まっているからだ。それは恣意的なものではなく、長い歴史の積み重ねの中で確立されてきたものなので、容易には改変できない。言わば「不易」に相当する部分である。教育の基礎部分は、まずこの「不易」の部分を学生に叩き込むことに集中すべきだと考える。

基礎が出来上がれば、研究領域でなら分野の垣根を越えて、必要に応じていくらでも学際的な取り組みを行えば良い。しかし基礎段階でこれをやると、学生は自分のよって立つ基盤が分からず、途中で途方に暮れる事態に陥る可能性が高い。

教育の本質とは何か

それにしても、長年教育機関に勤務していてつくづく思うのは、一種の「教育のパラドックス」である。つまり、教育は大切なんだけど、教育だけで人は育たないし逆効果の場合さえもあること。よくある「教育不要論」は、大体この辺をついている。

例えば、私が愛読している本の著者たち〜井筒俊彦、堀田善衛、加藤周一、柄谷行人など〜の経歴等を見ても、彼らはほとんど独力で自分の世界を切り開いた知識人で、誰かから教え導かれたとの形跡は見られない。史上多くの天才やノーベル賞受賞者も同様で、彼らの仕事は「教育」で養われたものではない。つまり、この種の非常に優れた頭脳を、何らかの教育プログラムで養成することは恐らく無理なのだ。

今流行の「ギフテッド児」教育などにも、私はあまり期待していない。放っておいても伸びる子は伸びるから、下手に手を加えない方が良いとさえ思っている。むろん、伸びる可能性を摘み取るような「指導」など、あってはならないが。

しかし一方で、それでも「教育」は大切なのだ。素養としての、あるいは必要条件としての教育が。

そこで以下、それら最低限必要と思える教育の内容について述べる。

基礎教育に関しては、昔から「読み書きそろばん」との至言がある。つまり、読み書き=言語能力と「そろばん」つまり基礎的な計算能力または量的把握力である。いくらコンピュータが発達しても、これらの基礎力を欠いた人間は、基本的な思考さえも難しいので社会で生きて行くのが困難になるだろう。何しろ、コンピュータの打ち出す内容自体が理解できないのだから。

なお、読み書き=言語能力は単なる「技能」ではないことにも注意したい。人間は、言語で考える生き物なので、考えをまとめ、表現するにも言語能力が要るからだ。これは日本語・外国語を問わず重要であって、いくら生成AIや機械翻訳が発達したとて、基礎的な言語能力がなければそれらを使いこなすことも不可能である。教育の初期段階から「ことばの教育」を大切にしたい。

もう一つ「縦横そろばん」との名言も挙げておこう。「縦」とは時間軸、つまり歴史の重要性である。現在を理解し未来を考えるには、過去から学ぶしか方法はないから。「横」とは空間軸、つまり地理・地政的思考、また多様性の認識を指す。これらがないと、狭い視野の中でしばしば独善的・狂信的な考えが生まれる。

「そろばん」は上記そのままなので、私はこれに「深さ」を加えたい。これは、物事の表面事象にとらわれず、本質を見抜く力を想定している。つまり、広義の思考力、自分の頭で考える力である。極論すれば「自分の頭で考える人間を育てる」のが教育だ。

これに関連して、倫理的思考の訓練も加えたい。具体的には、人権意識や平和への意識、意見の相違を克服する方法の習得などが含まれる。今の「道徳教育」よりも、もっと視野の広い深みのある教育を期待する。恐らく、柄谷行人の言う「普遍宗教」の基礎的段階が、これに相当すると思う。ここには「価値観」の問題も出てくる。具体的には、今の社会の主流である「今だけ金だけ自分だけ」を克服する方途の探索ということになるだろう。

また理系的素養としては上記の数学的能力だけでなく、もちろん物理・化学・生物・地学の基本的知識と理解は必須である。現代は科学・技術社会であるから、現代人にその基礎は必ず要る。

今流行のプログラミングとか金融教育などが必須とは思わないが、現代社会の基盤である政治・経済や法制度の基礎知識は必須だし、文学その他の芸術にも若い時分から親しむ方が良い。古文漢文などは意見が分かれると思うが、私見では、昔の日本人の書いた文章の原文〜空海、道元、親鸞その他多数〜に若い頃から触れることは、色々な面で有益だろうと考える。

これらを初等中等教育で学んだ後、大学で各自の専門基礎とともに、昔はあった「教養教育」に相当するプログラムを学ぶべきだと思う。ただし昔と同じではなく、例えば分子生物学はどの分野の学生にも基礎知識として必要な時代になっているし、種々の学際的なテーマが存在する。

また、例えば工学部であれば、低学年で工学基礎共通科目のようなものがあっても良い。どの学科の学生でも、基本的な熱・物質収支や力学、電磁気学、基礎的な微分方程式の扱いなどは必須なので、これらは共通化すると効率が上がる。各自の専門性が進めば、いずれ研究対象は領域横断的なものが多くなるはずだ(工学系では特に)。だから、広い領域の基礎力は必須になる。

こうしてみると、大学の学部4年間は基礎教育で大体一杯になる。本当の専門教育は大学院に進んでからとなるのもやむを得ない。実際、今の学部教育では真の専門性を養うのは難しい。であればむしろ、汎用性のある基礎教育に重点を置く方が、後々有用ではないかと思うのだ。

理想的な教育システムに向けて

今なぜ、こんな地味な教育の話を書くのか?それは、私が今の日本社会に希望を失っていることに関連する。字数の関係で具体例は書かないが、司法・立法・行政どの分野を見ても、また学術の分野でも、何だよこれは・・?と思うようなことばかりが続く。

今の大人たちには期待を抱けない。若い人たちが自分の頭でモノを考え柔軟な発想で物事に取り組むようにならなければ・・・、そのためにはまず「教育」だ、との思いからなのだ。

どれだけIT技術やAIが発達しようとも、人間が育つ過程は変わらない。人間の社会が存続するためには、人間を育てる=教育の重要性が減ることはない。教育についてもっと真面目に考え、お金を投入してもらいたい。