月刊『文藝春秋』でのコラボ連載開始を受けて、2/9(金)19:00~ より、久しぶりに浜崎洋介さんとの文春ウェビナーを配信します。冒頭の無料部分のYouTube はこちらから。
連載「『保守』と『リベラル』のための教科書」では浜崎さんが保守、私がリベラルを考える上での好著を交替で紹介しますが、今週末に発売の3月号には私の1回目も掲載。双方の「最初の1冊」が出揃うのを踏まえ、いま求められる保守とリベラルについてタブーなく論じます。
文春さんのイベント紹介文が、ありがたいです。
この二人には「共通点」があります。“敵陣”を攻撃する以上に“自陣”に厳しい視線を向けていることです。浜崎さんは、「リベラル」を批判する以上に、自称「保守」の現状を批判し、與那覇さんは、「保守」を批判する以上に、自称「リベラル」の現状を批判しています。
逆に近日のSNSで目立つのは、「味方とは、仲間を全肯定し敵を全否定する人のことである。敵の側が利用し得る論調を述べたり、まして敵の発言に『いいね』していた者は、すでに味方ではなく敵である」みたいな態度でしょう。なにか特定の党派に入っているのかな、とさえ思わせますよね(実際、入ってる人もいるのでしょうけど)。
さて、その浜崎さんはimidas でも連載「保守思想入門」が始まったとのことで、初回を拝読したのですが、興味深かったのは以下のカール・マンハイムの引用と、浜崎さんによる解説でした。
「保守主義的に行為する」ということが単なる形式的・反応的行為をいうのではなく、内容的にも形式的にもつねに十分に歴史的に性格づけることのできる(たとえ特定個人に接近する以前にそれ自体としての運命をもちえたにしても)思考・行為様式への意識的または無意識的な自己定位を意味することは、すでにきわめて明白である。
(マンハイム『保守主義的思考』森博訳)
いかにも古い思想書の訳文ですが、ポイントは「できる」ではないか、と感じました。マンハイムは保守主義を伝統主義と対比する形で紹介しますが、伝統主義とは要は「これが伝統だ」として定められている形式を、そのまま墨守するだけの態度であると。
逆に保守主義の場合は、ルーツを遡った際に「あぁ、これは最近ぽっと出で始まったやり方ではなく、どうも歴史の中から生まれて今日まで続いてきたもののように思えますね」ということにできれば、それを採用してかまわない。だから伝統主義よりも自由で主体的だし、逆に意地悪く言うと、あたかも伝統に則したもののように「見せかけられるなら」、実はウソでもかまわないという狡猾さもある(気がします。笑)。
平成序盤の日本の歴史学界では『創られた伝統』という本(本来は文化人類学の論集)に依拠して、「……というわけで、日本の伝統だと呼ばれている○○は、本当は近い時代に創られたものに過ぎず伝統じゃないんですねぇ(はい論破ドヤァ」みたいな論調が流行ったんですけど、それは伝統主義者への批判にはなっても、保守主義者には痛くもかゆくもなかった。
「本当に伝統だったかなんて、最初から問題じゃないですよ。いま、私たちはそれを『伝統』として意味づけることができるかだけが、問題ですから」というのが、おそらくは保守主義的なモラルのコアなのでしょう。
そこにどういった長短があるのか、特定の党派や思考様式に縛られないやり方で、「リベラル」に論じる対談になればと思います。多くの方にご視聴いただければ幸いです!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。