伊豆半島をめぐる旅。最後に訪ねたのは半島の東南に位置する下田市でした。
伊豆急行線の終点である伊豆急下田駅の駅前はいかにも南国ムード。この日も2月というのに温暖で歩くのにコートはいりませんでした。
江戸時代から東西を往来する商船の寄港地として栄えた港町でしたが、この町の歴史を変えたのはなんといっても幕末、浦賀に来航したペリーから開国を迫られ、幕府が最初の開港地として提示したこと。
1854年3月3日、日米和親条約の締結に基づき下田、箱館の2つの港を開港、200年以上続いていた鎖国が事実上終わりを迎えました。その後下田にもペリー艦隊が来航して70日ほど滞在、後任のハリスが駐在するなど外交の玄関口として機能することになりました。
駅から15分ほど歩くと下田港に到着します。今は穏やかな漁港といった様相ですが、幕末期にはここが開国の幕開けとなる歴史上重要な港となっていました。
港に隣接するペリー上陸記念公園にはペリーがここに上陸したことを示す記念碑が建てられています。ペリーは下田港が安全かつ容易に船を出入りさせることができる場所であることに満足したと言われています。
港からペリーらが滞在した了仙寺までの間は「ペリーロード」と呼ばれ、レトリックな町並みが広がっています。かつては花柳町として栄えた場所でなまこ壁の蔵や伊豆石を使った建物など江戸から大正期に建てられた歴史ある建物が川沿いに並びます。2度目の来日で下田を訪れたペリーは艦隊を引き連れて了仙寺に向かって行進したといいますが、ここも通っていたのでしょうか。
条約によって日本で初めてアメリカ人が自由に日本国内を往来できた場所となっています。
港からペリーロードを抜けてさらに歩いていくと了仙寺にたどり着きます。ペリーらの応接所となった場所で、箱館調査に行く際の拠点とされました。また、神奈川で結ばれた日米和親条約の細則を定める下田条約がここで締結されています。
寺は紅の梅がちょうど見ごろでした。いつから植えられているものかわかりませんが、ペリーやこのあとこの地にやってきたハリスもこの梅を観たのでしょうか。
了仙寺からさらに先、西に歩を進めると開国の歴史を知れる開国博物館があります。歴史を学ぶ施設であることはもちろんですが、ここはかなり地酒が豊富に置かれているのでそれ目当てで訪ねてみてもいいと思いますよ。
港の方に戻り、港の蕎麦にある小高い丘に登ります。かつて下田城があったこの場所は下田公園となり、開国記念碑が建てられ、日米の交流がここから始まり、将来にわたって共栄していくことを誓う碑文が設置されています。
1979年には当時の大統領であるジミー・カーター氏が下田に来日しました。その記念碑もここに残されています。アメリカにとっても下田は日本との交流の歴史を切り開いた歴史的意味のある場所なのです。
今回、開国の舞台としての下田を紹介してきましたが、下田の魅力はそれだけではありません。下田市では30カラーズプロジェクトと銘打ち、さまざまな視点で下田を観光することができるよう30のパンフレットが用意されています。気になるパンフレットをのぞいてみてもらって、あなたらしい下田探しの旅に出かけるのも楽しいと思います。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2024年2月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。