2/20のお昼に、文化放送の番組「大竹まこと ゴールデンラジオ!」にお邪魔してきました。進行は大竹さんと、火曜日MCの小島慶子さん。早速、YouTube(音声のみ)とPodcast でも聴けるようになっています。
サムネイルのとおり、昨秋に出した『危機のいま古典をよむ』(あとがきがこちらで読めます)についてお話ししたのですが、同書のコンセプトを小島さんがずばりまとめて下さったところに、大竹さんが刊行以降の世相に照らして「今、どう読むべきか」をご指摘下さり、最後まで楽しく紹介することができました。ありがとうございます。
ちなみに、たたき台として優れた台本を準備して下さった構成作家の方と、出番の前に打ちあわせしていたら、なんと同世代。そこで話題になったのが、メディアで「昭和ブーム」はしょっちゅう来るのに、「平成ブーム」はイマイチ盛り上がりませんね……ということでした。
言われてみると、いま話題の宮藤官九郎さんのドラマのように、「昭和オヤジ」は悪口の対象であれ、よくも悪くも定番のイメージがある。でも「平成おじさん・おばさん」って言われても、どうにも輪郭が曖昧で、誰を連想したらいちばん「平成っぽい」のかもはっきりしない。
それで、帰りにモヤモヤしながら「昭和のナポリタン」を食べていたら、有線でもうずいぶん聞いてなかったとんねるず(ただし曲は平成初期の1992年)がかかって閃いたんですけど、昭和って、終わるそばから(なんなら終わる前から)パロディになっていった時代だったんですよね。
つまり、なにが「昭和っぽい」「The 昭和」なのかについて、みんなが共通の理解を持っていて、それを茶化すときにも「オリジナル」として参照はしていた。そして「踏まえた上で」貶す、っていうのは、たとえ批判が目的であっても、最低限のリスペクトにはなるんですよね。
そうしたあり方が、平成に崩れていき、いまはみんなが共通に参照できる基準や出発点がどこにも存在しない。むしろ「まだよく知らないけど好き」「ちらっと見てムカついた」みたいな小さな感情を、ネットで検索して同じ気持ちの人どうしが繋がることで増幅させ、煽ったり叩いたりする。なので、もし違う人とぶつかったら、単なる炎上・乱闘にしかならない。
結果として、一過性のムーブメントには毎日満ちているんだけど、全体として「なにが、この時代の本質なんだ?」みたいなものを、誰も捕まえられなくなっている。それが、平成を通じて生まれ(てしまっ)た令和の社会なんでしょう。
そんな世の中ではもちろん、「古典」という概念があったこと自体が忘れられてゆく……という形で、奇しくも『平成史』のテーマと最新刊とが、ジョイントする一日になりました。貴重な体験をありがとうございました!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。