今回は、「アメリカの歴史」シリーズの4回目です。
自由主義や地方自治、憲法についてのアメリカの記事を読む際に、やはりアメリカの歴史について最低限の知識がないと理解が難しいと思うので、このシリーズも読んでいただけると嬉しいです。
イギリスの植民地だったアメリカの北米大陸が独立革命を経て独立しますが、ここで「植民地」という言葉について考えたいと思います。
植民地(colony)とは、本国からの移住者によって経済的に開発され(植民・移民)、本国に従属する地域。統治領とも呼ばれる。
(ウィキペディア)
「植民地が独立する」とはどのような意味でしょうか?
例えば「第二次世界大戦後、アジア・アフリカの植民地が欧米列強の支配から独立した」という場合は、「先住民が、外国の支配者を追い出し自治を取り戻した」という意味です。
また「北米植民地が、アメリカ独立革命で、イギリスから独立した」という場合は、「北米に入植したイギリス人が、本国と分離し新しい国をつくった」という意味で、先住民が支配者を追い出したわけではありません。「アメリカ人となった元イギリス人」と「先住民インディアン」との争いは続いていきます。
先住民との争いについてはこのシリーズでは細かくは書きませんが、「植民地」「独立革命」という言葉が今後多数出てきますので、その意味についてはご注意いただければと思います。
前回のあらすじ
- イギリスの「航海法体制」で貿易規制や関税の締め付けが大きかったが、北米植民地人は密貿易を盛んに行った。イギリス本国も、その密貿易を黙認していた。(有益なる怠慢)
- 7年戦争(北米大陸での戦争はフレンチ・インディアン戦争)で、イギリスはフランスに勝利。
- 敗北したフランスは、北アメリカ大陸から完全に撤退。
- イギリスは北アメリカの東半分の明白な支配権を手に入れ、広大な領土を獲得した。
- 7年戦争が終結してもアメリカ大陸のフロンティアでの争いは終わらず、先住民の反撃を抑えるため、イギリスは英国陸軍の動員が必要だった。
- それを維持するには多くの軍事費が必要だった。
- フランスの脅威が去ったことで、イギリス本国は北米植民地に対する規制の強化が可能になった。
- イギリス王ジョージ3世は「有益なる怠慢」の見直しに舵を切る。
詳しくはこちらの前回の記事をご覧ください。
1. イギリスによる「有益なる怠慢」の見直しと課税に、反発する植民地人
皮肉なことに、北米の植民地人はそれほど損をしていたわけではありませんでした。
イギリス本国から集めた税金のほとんどは、北米大陸のために使われていました。その税金が投入されていた軍隊の勝利のおかげで、フランス軍の脅威が消滅し、西部辺境が解放されました。各植民地はイギリス軍によって防衛されていたのです。
繁栄する植民地人のために北米大陸を安全にしてあげたイギリス本国は、植民地人にその分の税負担を求めるのは当然だと考えていました。
イギリス本国の納税者は、すでに植民地人よりも重い税を支払っていました。また、商業革命を通じて植民地が経済成長を遂げていたことが、植民地への課税を正当化しました。
2. イギリスによる「有益なる怠慢」の見直しと課税に反発する植民地人
1764年、イギリスは戦費の一部を同胞である植民地人に払ってもらおうとし、北米植民地に砂糖税を導入しました。
従来のイギリス本国による植民地に対する財政干渉は、航海法などの重商主義的貿易統制に限定されていました。
この砂糖税にもっとも怒ったのは、商人たちが大打撃を被ったニューイングランド地方の6つの植民地でした。それ以外の地域の植民地人は、概して無関心でした。
3. 印紙法への反発
1765年イギリスによる「印紙法」の制定が、大規模な抵抗運動をおこします。各地域で抵抗運動が組織され、彼らは自らを「自由の息子たち」と呼びました。
印紙法とは?
新聞などの印刷物や証書類、トランプにまで印紙を貼ることを義務付けた法律。ヨーロッパでは一般的だったが、北米植民地ではそうではなかったので民衆の怒りをかった。
「直接、または代表をとおして自分たち自身の同意がなければ、いかなる税も課せられてはならないというのが、人民の自由に不可欠の条件である。代表を送っていない本国議会による恣意的な課税は、植民地人が持つイギリス人としての固有の権利を侵害している」
ととらえ、反発が起きました。
これを端的に表す「代表なくして課税なし」という言葉は、マグナカルタ以来の、さらには名誉革命の権利章典によって確認された、イギリス人としての固有の権利を端的に示したスローガンです。
過去に植民地を建設したヴァージニア会社が王ジェームズ1世から授けられた特許状には、「植民地開拓者とその子孫はイギリス本国の国民と同じ自由や権利を享受できる」と強調されていました。
4. 宣言法、タウンゼント諸法への反発
「自由の息子たち」によって徴税人は嫌がらせを受けました。また、植民地全体でイギリス製品の不買運動が広がり、イギリスからの輸入量が大きく減少しました。
そのため、植民地への輸出で利益を得ていたイギリスの商人が印紙法に反対するようになり、1766年に印紙法の撤廃が決まりました。しかし、イギリス本国議会は「宣言法」を制定し、植民地に対する立法権を引き続き主張します。
1767年、植民地に対する新たな関税が制定(タウンゼンド諸法)されました。これは直接税の印紙税と同じくらい悪税でした。
法律に違反すれば、船舶およびその積み荷(水夫の私物まで)を没収されかねなかったのです。違反を密告したものには報酬が与えられたため、疑心・不信に加え、偽情報も広がってしまいました。
このタウンゼンド諸法は、植民地全域から反発を招き、不買運動が活発化します。
英軍への食糧や宿舎の提供を求められる「宿舎法」の制定も、植民地の人々の反発を大きくしました。
イギリス国内では、所有者の同意がないと民家を軍の宿舎として使用することはできませんでした。イギリス本国人と植民地人は対等なはずなのに、このような扱いを受け、植民地人は、権利や自由が侵害されたように感じたのです。
5. アメリカ植民地人の【抗議思想の系譜】
ここでイギリス本国に抵抗した北米植民地人の抗議思想の系譜の3つを紹介します。それぞれについて細かく書くと長いくなるので、ここでは取り上げませんが、どこか別の機会で書きたいと思います。
- イギリスの立憲主義的思想:エドワード・コークやウィリアム・ブラックストンの思想
- ジョン・ロックなどの17世紀の自由主義思想を継承するもの
- 政治的人文主義の思想:共同体全体の価値たる公共善を実現することを政治の目的とする共和主義思想。
最後まで読んでくださりありがとうございました。次回は「ボストン茶会事件」です。
また、このシリーズは以下の書籍を参考にまとめています。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年2月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。