ウェルビーイング雑感:持続可能な幸福か一時の幻か

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1.ウェルビーイング狂騒曲

仕事柄、色々な自治体の政策作りなどに関与させて頂いているが、もはや、触れていないところ、書いていないところが無いのではないか、というくらいに最近氾濫している文言が「ウェルビーイング」である。どこの自治体の総合戦略や人材育成方針にも、必ずと言って良いほど頻繁に登場している。

まあ、少し前のSDGsやサステナビリティにしても(一応まだ流行ってはいる?)、何にしても、それっぽい“新しい横文字”を「ありがたや」と敬って重視するのは、今に始まったことではなく、それはそれで悪い事ではないのかもしれないが、どことなく薄っぺらな感じがするのは私だけであろうか。

「すぐに盛り上がるものは、すぐに忘れ去られる」ものであり、ブームというものはそもそもそういうものなのは仕方ないが、ウェルビーイング狂騒曲もあと何年持つか、などと斜めについ見てしまう私は、やや性格がねじ曲がっているのかもしれない。

私は、ウェルビーイングを否定しているわけではないのだが、その表層的な広まりには懸念を感じている。

ウェルビーイングには、大別して、人生の在り方、暮らしの作り方を深いレベルで考え理解した上で、自らの人生をポジティブに作り上げていくという真のウェルビーイングと、ただ単に、「大変だから楽をしよう」、「楽をして享楽に身を任せよう」という本来あってはならない亜種のウェルビーイングの2種類があるような気がしている。後者のまん延には警戒しなければならない。

2.ウェルビーイング栄えて国滅ぶ?

「向かいのホテルオークラ(大蔵省)と、こちらの通常残業省(通商産業省)とどちらが良いか」などと、その不夜城ぶりが揶揄されていた霞が関の官庁街だが、現在は、聞くところによると私が所属していた13年前とは様子が変わりつつあり、若手のうちでも有給休暇をとったり、男性でも育休や産休をとったり、ということが広がりつつあるという。

もちろん、引き続き国会対応その他で、残業の嵐だという部局・個人も少なくないようではあるが、かつてはサービス残業だった状況から、少なくとも残業代はほぼフルで支給されるようになったとも聞いており、ウェルビーイング的には、いい方向に向かっていることは間違いない。

その昔は、銀行や大手企業でも残業が普通だったのが変わり、最後の残業王国の牙城とも言えるメディアや官公庁が変わり・・・となると、一部のガムシャラなベンチャー企業などを除き、日本は、ウェルビーイング派が常に例に出す北欧諸国などと同様に、マルクスも驚くような労働者が過ごしやすい国・社会になっていくのかも知れない。

ただ、ウェルビーイング栄えて国滅ぶ、という懸念もないわけではない。直接の因果関係の説明はできないが、減少としては、日本企業・日本のサラリーマンのガムシャラぶりが徐々に減退していき、欧米諸国のサラリーマンなどと同様か、それ以下のガムシャラぶりになるとともに、日本企業は競争力を失っていった。

欧米の陰謀ではないか、という説があるほどに、当時の日本人を「エコノミック・アニマル」などと非難して、何とか日本企業の強勢ぶりを弱めようとしたかったことは確かだ。余計なお世話と言えば余計なお世話だが、日本人は人生の楽しみ方を知らない、とばかりに、人間を幸せにしない日本のシステムと論難する風潮があったことは間違いない。

そして、繰り返しになるが因果関係は別として、現象としては、日本人の労働時間が減って行く中で、かつて、世界の時価総額ランキングでトップ30社のうち21社を占めた日本企業の存在感は見る影もなくなり、最近になって約35年前の日経平均の最高値にようやく追いついたと喜んでいる状態だ。(その間、アメリカのダウ平均は、15倍~20倍になったとされる)

その株高も、その大きな要因は、中国に向いていた海外投資家の資金がオルタナティブとしての日本に向かったことや、新NISAによって個人金融資産が流入してきたことなどであろう。私見では、日本企業の真の実力に海外投資家たちが目覚めたからだ、というのは幻想のような気がしている。バフェットが日本の商社株を買ってくれていることに留飲を下げている場合ではない。

『不適切にもほどがある』という“レトロを一周回って新しく感じさせる”という良くあると言えば良くある手法のドラマが流行っているようだが、いずれにしても、頑張らずに良い生活を送れる、というのは幻想にすぎない。

頑張ろうとする人、人一倍努力しようとする人に対して、「お前がんばるなよ、お前が頑張り過ぎると、俺のウェルビーイングまで減退してしまうんだよ」というような悪しき平等主義、或いは頑張屋をせせら笑う冷笑主義のまん延は、行き過ぎたウェルビーイングの曲解であることは論を待たない。

かつて、政治家は日本は二流だが、日本の官僚は世界最強とも言われたことがあったが、あってはならない亜種のウェルビーイングのまん延と共に、日本の公務員の質がドンドン低下して行くこと、汚職等とは基本的に無縁で、モラルの高い日本の公務員の実力や地位が低下していってしまうことの無いようにしてもらいたいと痛切に願っている。

3.ウェルビーイングと政治家~パブリックを担う勇気と正しいウェルビーイング

先ほど、日本では、最後の牙城とも言える官公庁に至るまで、ウェルビーイングが広まっていると書いたが、もしかすると、そのリーチが届かない先にいるのが政治家かもしれない。彼らの正確な残業時間は測定するべくもないが、土日はもちろん、早朝から深夜に及ぶ各種会合への出席などを考えると、とても普通の人が耐えられる生活ではない。

ただ、世の中の多くの職業でウェルビーイングが広まれば広まるほど、余暇?の増えた国民たちの不平不満の矛先が政治に向いているような気がする。

「俺たちの税金で食ってるくせに」(という人ほど、実はさほど税金を払っていない、という気がするのは私だけであろうか)という“大義名分”をひっさげて、忙しい時には向かなかった意識が、より栄えているように見えるもの、偉そうな人たちに先鋭的に向いている気がする。

(余談だが、ビッグモーター、ジャニーズ、宝塚、自民党(安倍派)、松本人志、ダイハツ(トヨタ)・・・と、もちろん、不正などがある場合にはそれは正す必要があるが、いずれにせよ、強いもの・勝っているものに対する不平不満が凄い勢いで世間に渦巻いている気がする)

そうなると、ウェルビーイングはないわ、世間の不満は向かうわの政治家になるなり手は必然的に減って行き、その質は低下する。

世界最高峰の人材を集めて、世界最強の国家となったにも関わらず、そして、民主主義であるにも関わらず、トランプ vs. バイデンの大統領選挙しか演出できなくなってしまったアメリカはその典型であろう。良い人材は、ポリティカル・アポインティなどによる一本釣りを除き、さほど政治や行政に向かっていないというのはコンセンサスである。

かつての日本では、「滅私奉公」という言葉が流行っていた。自らは犠牲にして、公のために尽くす。そういう行為が、人々の尊敬を生み、労働時間や精神的ストレス、金銭面での処遇などでは、ウェルビーイングとは程遠い生活環境でありながら、公共(パブリック)を担う人材になろうという優秀な人材が多数存在した。

そして、究極の滅私奉公の存在が、実は天皇陛下であると私見では感じている。天皇陛下は憲法上も実態上も日本国の象徴・シンボルということだが、一体何の象徴なのかと考えると、もちろん、祭祀を担うなど歴史・文化的な意味もあるが、究極的には、「利他の象徴」ということなのではないかと思う。自らを犠牲にして、この国・社会の未来永劫の弥栄を祈願する。そのためには、自らの身は顧みない。

眞子様などの動きがある意味で典型なのであろうが、ウェルビーイングを考えると、とても皇室に生まれたいとは思わないのが普通であろう。

ウェルビーイング全盛下における天皇陛下・皇室メンバーの人権というのは、ある意味古くて新しい命題であり、私見ではいずれイギリス王室のように、天皇制や皇室はその存在そのものの是非が公然と、過激な形で議論の対象になってしまう時代がくると感じている。

が、いずれにせよ、かつては、究極の滅私奉公ともいえる天皇陛下を頂点に、政治家・官僚・そして、渋沢栄一翁のような大経営者に至るまで、表層的なウェルビーイングを犠牲にしても、自分の人生を輝かせよう、ということが尊重され、評価されていた。

単に昔に戻れ、というつもりはない。ただ、公共(パブリック)を担う勇気、そうした滅私奉公的人生も、一つの選択としてあるべきであり、そのために必死に頑張るということも、人によっては究極のウェルビーイングである、という事実に社会がもって目を向けるべきであると強く感じている。