江戸幕府の物価対策③:田沼意次は「反緊縮」か?

呉座 勇一

歌川広重「江戸高名會亭盡 狂句合 橋本まで御紋橋本に七つ梅」
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(前回:江戸幕府の物価対策②:「遠山の金さん」の誕生

天保の改革を主導した幕府老中の水野忠邦は、天保12年(1841年)12月13日に株仲間解散令を出し、同21日には反対した江戸南町奉行の矢部定謙を排除した。水野は既得権を解体する〝規制改革〟によって苦境を打破しようとしたのである。

しかし水野の思惑は外れた。株仲間解散は流通機構の混乱をもたらしただけで、味噌・醤油・灯油・木綿・紙などの生活必需品の江戸への入荷量は依然として増加しなかった。買占めを行う株仲間を解散すれば、自由な取引によって物資流入が増加し物価が下落するという水野の想定は、机上の空論にすぎなかった。

結局、水野は市場に介入せざるを得なかった。天保13年5月には物価引き下げ令を出し、広範な品目を対象に物価統制を行った。ほぼ同時期、水野は地代・店賃の引き下げ令も発令している。

天保の改革の物価取り締まりは非常に細部にまでわたり、徹底したものだった。高価な品を売った職人・商人は次々と処罰され、再犯者の中には江戸から追放された商人すらいた。

水野は、物価を強制的に引き下げようとしたが、商人たちは値段を下げる分だけ品質・形量を落とすなどの抵抗を見せた。しかも水野は職人・日雇い労働者の賃金も引き下げたので、物価が下がっても庶民の生活が楽になったわけではなかった。

水野はより抜本的な対策も模索していた。矢部定謙に代わって江戸南町奉行に就任した鳥居忠耀(耀蔵)の提案にしたがって、貨幣の良貨への改鋳を検討した。文政元年(1818年)からの度重なる悪貨への改鋳が物価騰貴の主因であることは明らかだったからである。だが幕府財政を預かる勘定所の抵抗で実現には至らなかった。

そもそも幕府が貨幣改鋳を繰り返したのは、改鋳による利益(金銀の含有量を減らすことで、その分の金銀が幕府の収入になる)で財政赤字を補填していたからである。したがって財政改革なくして良貨への改鋳は不可能である。水野は倹約令によって歳出の抑制に努めたが、大幅な削減は困難だった。そこで水野は幕府直轄領において年貢の増徴を行うとともに、大坂町人に御用金を課した。安易な増税策である。当然のことながら、大きな反発を招いた。

貨幣経済、流通経済が発達した江戸時代後期において、年貢米収入に立脚する幕府財政は既に時代遅れのものになっていた。商人への課税は御用金のような臨時課税や、株仲間からの冥加金上納のような特定業者への課税に留まり、経済全体から広く浅く恒久的に徴税する仕組みはなかった。

この歪な徴税構造が幕府財政の悪化につながり、その場しのぎで貨幣改悪を行うと物価が高騰し、幕府財政はますます悪化するという悪循環を生んでいた。この構造にメスを入れないまま、付け焼刃の物価対策を行っても実効性は低い。

追いつめられた水野は、天保14年6月、江戸および大坂周辺の大名・旗本領を取り上げて(替地を与える)幕府直轄領とする上知令を発した。その目的については諸説あるが、一つには、年貢率の低い幕領と、高い大名・旗本領を交換することで幕府財政を改善する意図があったと考えられる。

けれども上知令は、各地での強い反対運動に加え、幕府内でも土井利位や遠山景元ら多くの要人が反対したため、撤回に追い込まれた。これが引き金となり、閏9月13日に水野は老中を罷免された。失意の水野は「10年も老中を続けたことを後悔している」と自作の詩で嘆いた。

以上見てきたように、水野忠邦の天保の改革は、株仲間解散という規制改革と、厳しい倹約令の発令という緊縮財政の2本柱であった。現代の経済政策にたとえると、小泉構造改革に近い。そして水野の改革は失敗に終わった。

では、逆の路線をとっていれば上手くいったのだろうか。緩やかな物価上昇を是とする「リフレ派」と呼ばれる経済学者・経済評論家の間では、幕府老中の田沼意次(1719~1788)に対する評価が高い。

いくつか例を挙げれば、経済評論家の上念司氏は「意次は『経済の掟』でいうところの『自由な商売』を奨励し、公共事業によって干拓や道路整備などを進めることで初期資本主義のインフラを整備しようとしました」と、その「重商主義」を称賛している(『経済で読み解く明治維新』KKベストセラーズ、2016年)。

小説家の百田尚樹氏に至っては、「もし意次が失脚せず、彼の経済政策をさらに積極的に推し進めていれば、当時の経済は飛躍的に発展していた可能性が高い。そうなると日本は世界に先駆けて資本主義時代に入っていたかもしれない」とまで述べている(『日本国紀』幻冬舎、2018年)。

賄賂政治家と非難された田沼意次の再評価は歴史学界で既に行われている(大石慎三郎『田沼意次の時代』岩波書店、1991年)。けれども近年のリフレ派による田沼評価は、礼賛の域にまで達しており、違和感がある。

そもそも、しばしば目にする、三大改革=緊縮財政、田沼政治=積極財政という分類が乱暴すぎる。享保の改革で改善した幕府財政は、田沼時代に相次いだ天災・飢饉によって再び悪化し始めた。田沼は財政再建のため、倹約令を頻発している。この点では享保の改革の緊縮路線を引き継いでいると言える。

しかも田沼は拝借金を停止してしまった。拝借金とは災害などで経済難に陥った大名が無利子で幕府から資金を借りられるという制度である。現代で言えば地方交付税交付金のようなものである。

したがって拝借金の停止は、悪い言い方をすれば地方切り捨てである。小泉構造改革では、国の財政再建のために、地方交付税交付金を大幅削減している。その意味で田沼の財政再建策は、リフレ派が批判する〝小泉〟的でさえある。

田沼が「自由な商売」を奨励した、という理解も怪しい。田沼は運上・冥加金(献金)目当てに、多種多様な業種に対して株仲間を公認した。これは一種のカルテルなので、「自由な商売」には逆行する。ちなみに株仲間制度は、8代将軍徳川吉宗が全国的な流通を担う江戸十組問屋・大坂二十四組問屋の株仲間を公認したことに始まるので、この点でも田沼政治は享保の改革を継承している。

加えて田沼は、米価下落を抑えるため、米の空売りを禁止している。自由な金融取引に逆行する施策と評せよう。

田沼は印旛沼干拓事業という大規模公共事業に着手したが、大洪水によって工事は中止になった。また田沼は蝦夷地の金銀鉱山を開発し、その金銀でロシアと貿易を行うという壮大なプロジェクトを構想したが、これも調査段階で断念している。田沼の〟成長戦略〟はどれも不発に終わったのである。

では田沼は、収支の均衡を無視して積極的に財政出動すれば良かったのだろうか。経済成長の見込みがないまま財政赤字を拡大すれば、結局は貨幣改鋳で穴埋めせざるを得ない。貨幣の質を落とせば物価は高騰し、幕府財政は悪化するという悪循環である。〝成長戦略〟が頓挫した時点で、田沼の失脚は不可避であったと思う。

この教訓は現代にも通じるだろう。積極財政、リフレ政策、「反緊縮」は万能ではない。成長戦略こそが肝なのである。

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