江戸幕府の物価対策①:水野忠邦の過激なデフレ政策

歌川広重『東海道五十三次』より「日本橋」
Wikipediaより

ここ2年ほど、円安が続いてきたが、今年は円高への転換、あるいは過度の円安の修正が予測されている。この間、岸田政権の「物価高対策」はほとんど功を奏さなかった。

江戸時代後期の江戸幕府は、物価対策には非常に力を入れていた。江戸後期の経済トレンドは米価安・諸色高というものである。米価が下がり、それ以外の物価が上がっていく。

周知のように、江戸時代の経済は米本位制である。武士たちは年貢米の形で収入を得て、これを換金して生活する。したがって米価が下がり、それ以外の物価が上がることは、幕府や諸藩の財政難につながるし、個々の武士の生活難にもつながる。

いわゆる江戸幕府の三大改革(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)は、物価対策を一つの柱としていた。享保の改革を行った徳川吉宗が米価の安定に尽力し、「米将軍」と呼ばれたという逸話は良く知られているだろう。

三大改革で発令された倹約令は、二種類に大別される。一つは、幕府や諸藩が財政支出を抑え、財政赤字を解消するというものである。

もう一つは商人などの身分不相応な贅沢を取り締まる、というものである。お金に困っている武士が倹約するならともかく、商人に倹約を強いるのは、いささか分かりにくいかもしれない。

実はこれには、武士の窮乏と商人の台頭によって動揺しつつある身分制を再強化するという意味合いがある。だがそれだけではなく、倹約令には物価対策の意味もあった。特に天保の改革からは、商人の奢侈を徹底的に取り締まることによって、インフレを押さえこもうという意図が垣間見える。

商人が活発に消費すればするほど、無駄遣いをすればするほど、経済は活性化し、結果として物価は上がる。バブル経済を想起すれば理解しやすいだろう。

逆に言えば、贅沢の取り締まりによって、意図的に経済を冷え込ませれば、物価を下げることができる。要はデフレ不況である。

意図的にデフレ不況に誘導するという政策は、現代人には理解しにくいかもしれない。けれども、バブル経済末期にも、物価上昇とバブル成金への不満が国民の間に広がり、金融引き締め政策によってインフレ退治を進めた三重野康日銀総裁は「平成の鬼平」として喝采を浴びた(現在ではバブル崩壊の張本人として批判されることも多いが)。

そもそも、前述のように、武士たちは米を売って生計を立てている。デフレ不況は庶民にとっては大打撃だが、武士階級を救うことにつながる。

寛政の改革を主導した老中の松平定信は、商人の生活にも配慮し、極端な倹約令を出すことはなかった。ところが天保の改革を主導した老中の水野忠邦は、徹底的な贅沢取り締まり、質素倹約の強制によって江戸の経済が衰退し、商人が困窮しても、武士の生活さえ良くなれば構わない、という極論を唱えている。しかし、デフレ政策の採用は、武士階級の救済だけが原因ではない。

江戸の繁栄は、江戸への人口集中を生み出した。地方の農村から人口が流出し、江戸に集まってきたのである。農村人口が減少し都市人口が増加するということは、生産者が減り消費者が増えることと同義である。凶作の年には飢饉が深刻化することが懸念された。

天保の改革の半世紀前に行われた松平定信の寛政の改革でも、農村を捨てて江戸に流入した貧困層に対して帰農を促してきたが、効果は薄かった。江戸は娯楽や働き口が多い魅力的な町だからである。寛政の改革は現代の「地方創生」と類似の困難に直面して立ち往生した。

水野忠邦像
Wikipediaより

松平定信による農村復興政策は失敗した。その後、文化・文政期には幕府は緊縮財政から積極財政(放漫財政)に回帰し、好景気に沸く江戸への人口集中がますます進んだ。

そこで水野忠邦は、江戸経済を政策的に不況にし、江戸の魅力を減じるという過激な手段によって、江戸一極集中を是正しようとしたのである。

こうした水野のデフレ政策に真っ向から抵抗したのが、江戸市政を預かる江戸北町奉行の遠山金四郎景元である。遠山は、天保の改革が全ての贅沢を禁じ、倹約を徹底したことで、江戸が甚大な不景気に陥ったことを憂慮していた。

遠山は将軍のお膝元である江戸が寂れることは幕府の権威にも関わるので、倹約令を緩和すべきだと水野に上申した。具体的には、禁止品目を列挙した詳細な倹約令はやめて、身分相応の衣食住を命じる緩い倹約令を出すことを提案している。つまり「自粛」レベルで充分だろう、というのが遠山の見解であった。

水野は遠山の提案に激怒し、贅沢禁止を嫌がる町人に迎合するような倹約令を出しても無意味であると反論している。遠山は厳しすぎる倹約令は江戸の衰退と町人の離散を招くと考え、倹約令に手心を加えるよう願い出たわけだが、そもそも水野は江戸の人口減少を狙っているので、両者の溝が埋まるはずもなかった。

江戸衰微による幕府の威信低下うんぬんはタテマエであり、遠山が本当に気にしていたのは江戸の治安悪化だったと思われる。デフレ不況は日雇い労働者などの下層民の生活を直撃する。

その上、彼らから娯楽を取り上げれば、暴徒化する恐れがあった。当時は数年前に大坂で起こった大塩平八郎の乱の記憶も生々しく、大工や左官などの職人、鳶人足、行商を行う小商人などの深刻な生活苦は、遠山ら町奉行に打ちこわしの恐怖を感じさせたのである。

寄席全廃を命じる水野に対し、遠山は、勧善懲悪を説く講談は道徳教育の役に立つこと、全廃となれば芸人の生活ができなくなること、下層民から娯楽を奪えば酒色や博打に走ることを指摘した。

こうした遠山の姿勢は、まさしく江戸庶民の味方、「名奉行・遠山の金さん」を彷彿とさせる。次回は、水野と遠山の対立の帰結を見ていこう。