3月16・17日の東京新聞/中日新聞に、風元正さんの『江藤淳はいかに「戦後」と闘ったのか』の書評を寄せました。Webにも転載されたので、こちらのリンクから読めます。
平山周吉さんの『江藤淳は甦える』が「実証史学」的な江藤論だとすれば、風元さんの本は「文芸批評」的な江藤論。ちなみにどちらも、編集者として生前の江藤と面識のあった方ですね。
さて江藤淳の戦後との闘いというと、いま多くの人が連想するのがWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)ですよね。風元さんの本はそれより遥かに広いテーマを扱うものですが、議論が荒れがちなこのネタについて、いい機会だと思いQ&Aをまとめてみました。
なにせ伝統ある論壇誌まで「SNSでのケンカ術」に大注目する現在です。右・左・中道・ノンポリ、どの立場の方も自由にご利用ください(使ったらリンクを張って、あと僕の名前も入れてくれると喜びます)。
Q:そもそもWGIPってなんですか?
A:ざっくり言うと、太平洋戦争の終結後にGHQが「日本人に『先の戦争はよくなかった』と思ってもらえるように行った情報活動」のことですね。江藤淳が『閉された言語空間』(1989年。元の連載は82年から)で紹介したことで知られます。
Q:いかにも右翼の人が使いそうな概念ですね。そのWGIPは本当にあったんでしょうか?
A:はい、ありました。賀茂道子さんが2018年に刊行した『ウォー・ギルト・プログラム』が、その存在を立証した歴史学の研究です。
Q:江藤淳は文芸評論家であって、日本史の専門家じゃないですよね。そんな人の言ってたことが正しかったんですか?
A:江藤は1981-82年に『占領史録』という、GHQ統治時代の日本史を描くシリーズを責任編集として出しています。
細谷千博や波多野澄雄といった著名な外交史家が彼の下で働き、波多野氏の証言によると、しょちゅう差し入れしてくれるいい上司だったそうです(『江藤淳は甦える』653頁)。分野違いの歴史学者よりは、よほど専門家だったんじゃないですかね。
Q:保守系の論壇誌を買うと、WGIPって毎号1か所はどこかに載ってますよね。ああいう風潮を作ったのが江藤の占領研究なんですか?
A:そうでもないです。江藤が1980年に『一九四六年憲法』でGHQの検閲を問題視した際、保守派の政治学の大御所だった猪木正道(京大で高坂正堯の先生)は「当たり前じゃないですか、占領軍が検閲しないという例がありますか」と嘲笑しました。最初は保守論壇でもウケませんでした。
Q:じゃあなんで、いまはそんなに流行ってるんですか?
A:平成史の真ん中に、左右を越えて反米ムードが広がる時期がありました。01年に米国に倣う小泉構造改革が始まり、03年にイラク戦争、08年にリーマンショック不況、10年に米軍基地問題で民主党の鳩山政権退陣、11年に福島第一原発事故といったあたり。たぶん、その辺で再発見されたんじゃないでしょうか。
しかし、目の前の世相に便乗して発言するだけの人たちは、歴史を振り返らないので、1999年に自殺していた江藤の名前は忘れられ、WGIPだけが有名になったんです。江藤さん、かわいそうですね。
Q:でも、左翼の人は「そもそもWGIPなんて存在しない。歴史修正主義だ」みたいに言ってるようですけど?
A:江藤がよくなかったのは、WGIPという表題を有する決定的な文書(1948年)について、「コピーをアマスト大学史学教授レイ・A・ムーア博士から提供された」とだけ書いて、ちゃんと注をつけなかったんです。
これだとその文書がどこに保管されているのか不明だし、江藤ないしムーアが「捏造」したものかもしれない。それをきちんと見つけて実在を証明したのが、先に触れた賀茂道子氏の研究でした。
Q:「仮にWGIPが存在していても、実際には大して影響力はなかったのに、誇張するのは歴史修正主義だ」という意見もあるようですが?
A:江藤はGHQの検閲が「ほとんど原子爆弾に匹敵する猛威を」振るって日本人の戦争観を書き換えた、とまで書いているので、それはさすがに盛りすぎですよね。文学者だし。
ただし歴史学者の賀茂氏も、著書で以下のように書いています。WGIPの影響力は結構あったのであり、根拠なくそれを否定する方が歴史修正主義でしょう。
「ウォー・ギルト・プログラム」は、国民の「だまされていた」、「責任はない」との実感にお墨付きを与え、定義が明確化されていない軍国主義者に責任を集中させた。その結果、国民は戦争を主体的に総括することなく、反軍国主義というイデオロギーを支持していった。占領期に確立したこのイデオロギーは、戦後の政治意識に強く反映され、政策決定、特に安全保障に関わる政策決定に影響を及ぼしてきたのである。
『ウォー・ギルト・プログラム』266-7頁
強調は引用者
Q:すいません、学者さんの文章って読みにくいんですが、要するにGHQというか「アメリカが日本人を洗脳した」という理解であってますか?
A:これくらいは読めてほしいものですねぇ。そうではなくて、敗戦後の日本人自身が「私たちは軍部に騙されただけ。だから私も戦争の被害者であり、責任はない!」という風に、前から思いたがっていた。WGIPはそれにフィットするストーリーを提供した、ということです。
その意味ではWGIPは日米合作の産物ですが、結果として「二度と騙されないために、とにかくあらゆる軍備と戦争に反対!」という政治意識を養うことにつながったのは、アメリカにとってはむしろ失敗だったかもしれません。余計なことしなきゃよかったと後悔してたりして。
Q:日米どちらに得だったかはともかく、では事実関係としては江藤の主張が「おおむね正しかった」ってことでいいんでしょうか?
A:「おおむね」の範囲によります。賀茂さんは実証主義の手法で、主に以下の2点、WGIPについての江藤の見方を(よい意味で)修正しました。
① WGIPの計画書にいう「第三段階」を、江藤は実際に執行されたと考えたが、賀茂氏の調査によればほぼ未実施に留まっていた。
② 江藤は東京裁判とWGIPを一体のものと捉えたが、賀茂氏の調査では両者は方向性が異なっていた。東京裁判が重視したのは「国際法違反の侵略」を行った点だが、WGIPが戦争の罪として強調したのは「戦地での残虐行為と、国内での自由の弾圧」だった。
Q:メディアで言われている印象と違う気がするのですが。たとえば、荻上チキさんはTBSラジオの「WGIP問題特集」(2019年)で、歴史の専門家でない江藤には史料批判ができておらず、賀茂氏の本によって江藤説は否定された、という風に紹介していました。
A:その番組の最後で、荻上さんは「この〔WGIPに関する〕言説の出発点が、文芸評論家である江藤淳が書いたコラムである『閉された言語空間』」と発言しています。『閉された言語空間』は文庫で370ページもある本格的な著作で、コラムではありません。史料批判以前に、荻上さんは資料に触れていないのではないでしょうか。
Q:えっ。その番組には専門家として賀茂さん自身も出演していたのに、いちばん大事な参考資料を見てないなんてことがあるんでしょうか?
A:ラジオのキャスターってそれくらい忙しいんじゃないですか。荻上さんに聞いてください。
Q:うるさいうるさい! とにかく歴史学者は専門家であり、素人の評論家には必ず勝つに決まっているんだ。うおおおおおジッショー!
A:かわいそうな人ですねぇ。「専門家」を名乗ってメディアに出れば視聴者が黙って信じてくれた時代は、コロナとウクライナで終わったし、歴史認識問題すらもう話題にならないのに、そうして待っていたって歴史学者の出番は来ませんよ(笑)。ご愁傷さま。
いかがでしたでしょうか?
なお、この問題については学会誌『歴史学研究』の2020年2月号に、きちんと論文の形で寄稿しているので、学者の方が批判される場合は、必ずそちらを参照してください。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年3月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。