フランス革命勃発!ヨーロッパの混乱とアメリカ:アメリカの歴史⑧

今回は、アメリカの歴史の8回目です。

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合衆国憲法の制定!フェデラリストとアンチ・フェデラリスト~アメリカの歴史(7)|自由主義研究所
今回は、アメリカの歴史の7回目です。 前回はこちらです ↓ 1,合衆国憲法の制定 1781年、「連合規約」にようやく全邦批准が実現し、発効しました。 連合会議は脆弱ながらも正式に各邦を束ねる中央政府のような機関となったのです。 不完全ながらも行政機能を分掌しましたが、課税権の付与は実現しませんでした。 ...

1. ハミルトン体制の構築と第一次政党制

ワシントン政権発足以降、初代財務長官ハミルトンは、経済発展のためには、保護主義的な政策や経済環境の整備が必要として、体系的な経済・財政政策を打ち出します。

「公信用に関する報告」では、独立戦争中に積み上がった膨大の債務のうち、各州の債務も連邦政府が肩代わりして償還し、その支払のために新たに国債を発行するとしました。しかし、すでに償還の終了している州に不公平などから、マディソンは反対します。

アレクサンダー・ハミルトン

また、ハミルトンは、第一合衆国銀行の設立を提案します。これは違憲の疑いがあるとして「合衆国憲法の父」マディソンらが反対したが、設立は決まりました。

助成金などによる産業育成政策をハミルトンは提案しましたが、助成金は汚職の温床になるとして、ジェファソンやマディソンが反対し、より効率の関税が産業保護政策として採用されました。

1892年、鋳貨法が成立し、「ドル」が通貨単位となります。

第一次政党制では、ハミルトンの政策に賛成派は連邦派(フェデラリスト)で北部に多く、ハミルトンの政策に反対派は共和派(リパブリカン)で南部に多かったそうです。

第一次政党制

  • 連邦派(フェデラリスト):ハミルトンの政策に賛成。北部。
  • 共和派(リパブリカン) :ハミルトンの政策に反対。南部。

2. フランス革命とアメリカ

1789年7月14日、フランスでバスティーユ監獄が襲撃されフランス革命がおこります。

バスティーユ襲撃(フランス)

このフランス革命を発端とするヨーロッパでの戦争に対するアメリカの姿勢が議論となると、アメリカの党派対立が激しくなります。

ヨーロッパ諸国が対仏大同盟を結成して戦争に向かう中、ワシントンは1793年に中立を宣言します。

これに反発したイギリスがアメリカ船を拿捕してアメリカの貿易を妨害し、翌年に米英間でジェイ条約が締結されます。

しかし、この条約はイギリスに妥協的だとして、アメリカの共和派は激しく非難しました。

1796年、ワシントンは「告別演説(告別の辞)」で三期目に出馬しないことを国民に発表するとともに、党派対立の回避を呼びかけました。

また、当時のヨーロッパの騒乱から距離を置くように説いて、「孤立主義」外交の源流ともなります。

同年の大統領選挙で、連邦派のジョン・アダムズが一位、共和派のジェファソンが二位になり、それぞれ大統領・副大統領になりました。

ジョン・アダムズ

フランスでは、ロベスピエール処刑後に1795年に成立したフランス総裁政府はジェイ条約に反発し、米仏間の関係は悪化します。

フランスはアメリカの商船を拿捕し、宣戦布告のないまま米仏は戦争状態に突入し1800年まで続きました。

1800年にナポレオンのフランスと条約が結ばれ、アメリカは中立国としての権利が保障されました。

フランスの革命は、アメリカにも大きな影響を与えました

3. 「1800年の革命」

1800年の大統領選挙で現職のアダムズは破れ、最終的にトマス・ジェファソンが第3代大統領になりました。連邦議会選挙でも共和派が連邦派をおさえ最大勢力となります。この結果、連邦派は政権を共和派に明渡し、すみやかな政権交代が実現します。

ジェファソンは新首都ワシントンで就任した最初の大統領となりました。

※ 1800年に首都がワシントン・DCに移りました。

連邦議会の議事堂は、アテネの伝統を引き継ぐことを象徴的に示す意図があり、その意味でも、イギリスの伝統と決別し、新しい文明の構築を目指していたと言えます。

後にジェファソンは,このように選挙を通じて平和的に大きな政治的転換が実現されたことを,誇りをもって「1800年の革命」と呼んだそうです。

憲法制定時に敗北した反連邦派(のちの共和派)がここから主導権を握り、ジェファソンは大統領として、政府の権限を削減しました。

この「1800年の革命」以降,アメリカでは政党が対立しつつ選挙を通じて政権の獲得を目指すという政党政治の敢行が定着し,政党や制度のさまざまな変化を経験しつつも現代まで継続されていくことになります。

ジェファソン政権は、北アフリカ沿岸のバーバリ諸国との貿易問題で、1801年第一次バーバリ戦争(トリポリ戦争)がおこりますが、1805年にアメリカが勝利します。

トマス・ジェファソン

4. ルイジアナ購入

フランスでは1799年、クーデタで総裁政府が倒れ、ナポレオン・ボナパルトが独裁的な権力を掌握します。

ナポレオンは、1800年にスペインと密約を結び、7年戦争後のパリ条約以来スペイン領となっていたミシシッピ川正方の広大なルイジアナをフランス領としました。

この情報が伝わるとアメリカは慌てました。物流のかなめであったミシシッピ河口のニューオリンズについて、従来スペインが認めていた港の使用権などをフランスが認めるかどうか定かでなかったからです。

大統領ジェファソンはニューオリンズの購入をフランスに提案しました。

しかし、ナポレオンはルイジアナ全体のアメリカへの売却を持ちかけたのです。この驚くべき提案は、フランスに敵対するイギリスがカナダからルイジアナを攻め込んだ時、フランスが防衛するのはそもそも困難だとナポレオンが考えたからかもしれませんし、ハイチで奴隷の反乱し、フランスから独立などもあり、フランス帝国再建を諦めたからかもしれません(※ちなみにナポレオンは1814年に退位し、地中海のエルバ島に流されます)。

1803年、アメリカはフランスからルイジアナ全体を約1500万ドルで購入し、合衆国の領土を倍増させました。

大陸中央の広大な土地がルイジアナです

5. 英仏との関係

第三回対仏大同盟を崩壊させた皇帝ナポレオンは、1806年、イギリス経済に打撃を与えるべく、ヨーロッパ大陸諸国に対してイギリスとの通商を禁じました。大陸封鎖の発令です。

アメリカは中立の立場を維持し英仏両方との通商を継続しましたが、アメリカ商船は、英仏両方から拿捕される脅威にさらされることになりました。

イギリス海軍は、アメリカの船員に対して強制徴募を大規模に実施します。

※ 強制徴募とは、商船の水夫などを捕まえて無理矢理に水兵として徴用するものです。イギリス側はアメリカ市民をもイギリス人とみなして徴用の対象としました。

アメリカは対抗措置として1807年末、出船禁止法を制定しましたが、むしろ自国に経済的ダメージを与え国民の不満が噴出し、密貿易も横行しました。ジェファソンは同法を廃止し、英仏との貿易のみを禁じた通商禁止法を制定します。

1808年の大統領選挙では、共和派のジェイムズ・マディソンが第4代大統領に選出されました。2代目のジョン・アダムズ以外、初代ワシントンから5代目のジェイムズ・モンローまで4人がヴァージニア出身だったので、建国初期の政権を「ヴァージニア王朝」といいます。

西部では、先住民諸部族が独自に米英と外交関係を結びました。

ジェイムズ・マディソン

6. 1812年戦争

1812年6月、合衆国史上初めて他国に対する宣戦布告の法案が通過し、大統領マディソンが署名して、イギリスとの戦争が始まりました。

領土的野心の強い西部・南部出身の若手議員は戦争に賛成し、領土的野心の薄い北部(とくに連邦派の多いニューイングランド)は戦争に反対します。

1814年8月には首都ワシントンがイギリス軍に攻略され、戦火に焼かれました。

※ 内部が焼失し外壁を白く塗ったため「ホワイトハウス」と呼ばれるようになったという俗説がありますが、大統領官邸の外壁は以前から白く、以前から「ホワイトハウス」と呼ばれていたことを示す史料があるそうです。

翌月、イギリス軍はマクヘンリー砦を標的としましたが、米軍は英軍の攻撃を跳ね返し、このエピソードからアメリカ国旗「星条旗」が生まれました。ボルティモアの戦いです。

1812年戦争は最終的な勝敗がはっきりしないまま、和平交渉の末、1814年12月に講和条約が結ばれました。

アメリカにとっては「第二次独立戦争」とも位置づけられたこの戦争は、イギリスにとってはナポレオン戦争の一環だったともいえます。

反戦争的な立場を取った連邦派は支持を失い、第一次政党制は終わりました。

海上からロケットを打ち込むイギリス艦

最後まで読んでくださりありがとうございました。

次回の「アメリカの歴史シリーズ」に続きます。


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。