刑法上の「故意」について『世界大百科事典』(旧版)は大要次のように言及している。
刑法では、過失を処罰する特別な規定のない場合には、故意のないかぎり犯罪は成立しないので、故意の意義が重要な問題になる。刑法上の故意とは、犯罪を犯す意思(犯意)であり、犯罪事実の認識をいう。故意があるというためには,各犯罪を構成する客観的事実を認識しなければならない。
目下、自民党を揺るがせている政治資金の不記載問題について考える時、この問題のポイントである「犯意」の有無が蔑ろにされている気がしてならない。筆者は「不記載問題」と書いたが、「裏金」や「還流(キックバック)」などの、言葉の定義が明確にされないまま話が進んでいることも気掛かりだ。
「裏金」とは「取引などで、事をうまく運ぶため表に出さないで支払う金銭」(デジタル大辞泉)のことだが、そこには「良からぬことに使う金」というニュアンスが付き纏う。それは「政治資金報告書」(「報告書」)に記載し(され)なかった金が、政治資金にではなく「私的に使われた」という決め付けだ。
問題を清和会(旧安倍派)に絞れば、政倫審で弁明を行った政治家らは、それぞれパーティー券売り上げのノルマ超過分が「還流」されていたことは認めている。が、みな異口同音に「不記載」については知らなかったと述べている。つまり「裏金化」しているという意識(犯意)はなかったということだろう。
彼らの「犯意」の有無を整理すれば、「還流」が「報告書」に記載されるなら「政治資金規正法」(「規正法」)には違反しない。が、派閥から議員個人への資金提供は禁じられているから、それは政党から議員個人になされる必要がある。この辺りも国民の多くが正確に理解しているか疑問がある。
安倍元首相が派閥会長になっていた22年3月(暗殺の4ヵ月前)に、当時の西村事務総長らに対し、「還流」を止めるように指示したとの報道がなされ、政倫審でもその事実が確認された。が、安倍元総理の指示が「不記載を止めろ」というものだったという報道は、管見の限りだが、されていないようだ。
清和会幹部の政倫審の弁明でも、「還流」と「不記載」は20数年来の慣行とされた。西村氏と萩生田氏の初当選は21年前の03年だ。議員になった時からの慣行なら、自ら売ったパー券のノルマ超過分の「還流」の自覚は無論あるにせよ、「不記載」を知らなかったとの弁明を「嘘」と決めつけるのは如何か。
安倍元総理が暗殺された直後の8月に、清話会幹部が持った会合の場で「還流」を止めるか止めないか決められなかったことに、筆者は疑問を持っていない。何故なら、そもそもポスト安倍を決められなかったから「五人衆」と称する集団指導体制になったのだ。誰にも火中の栗を拾う勇気や力量がないのである。
その結果、古株で最高齢の派閥事務局長が阿吽の呼吸で「これまでの慣行を継続させた」のだろうと思う。すなわち「誰も決めなかったので、今まで通りにした」に過ぎないのだ。
が、この辺りの報道も安倍派幹部が「止める」と決められなかったのが、「還流」だったのか、はたまた「不記載」だったのかは明確でない。繰り返すが「記載」されていれば「還流」は「規正法」違反ではない。特捜が100人体制で捜査して起訴されなかった者は、「犯意」が立証できなかったということだ。
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そこで岸田総理総裁のことになる。筆者は22年9月、本欄に「岸田のままでは自民はおろか日本が危ない」と題して寄稿した。それまで問題視されたことのない旧統一教会(「教団」)と自民党銀員の関係を、安倍暗殺犯のリーク証言が報道されるや、岸田は過去に関係があった大臣の更迭と自党議員の関係断絶を強行した。
その一ヵ月後には文科省に「教団」の解散命令検討を指示した。目下裁判中だが、当時も今も「教団」は宗教法人法に基づく歴とした宗教法人だ。筆者は宗教に何の関心もないが、法律に基づいた存在を国のトップが潰そうとし、しかもその理屈を後付けするような行為は、法治国家としてあってはなるまい。
その後も我が国には全く必要のない「LGBT理解増進法」を性急かつ強硬に成立させて保守派の離反を招き、そして今回の「不記載」問題だ。後者では、これも後付けで宏池会会長を降りるや、各派閥に一切諮ることもなく、唐突に派閥解消を口にした。自ら進んで臨んだ政倫審も、これが弁明の場であること考えれば岸田らしい。
その岸田総裁が、「犯意」がないことを自身も特捜も認めている「不記載」議員に、「離党勧告」や「党員資格停止」という厳罰人事を断行し、自らは処分なしとした。真に独裁であり、党紀委員会が荒れるのは当然だ。「自民が危うい」だけなら未だしも、保守が揺らぎ「日本が危う」くなるのは困る。
総理になってやりたいことに「人事」を挙げた男の「人事」がこの体たらくである。司法を武器化して政敵を追い落とそうするバイデン政権や政府要人を次々規律違反で更迭する習政権を見るようだ。今ほど事の本質や真相を冷静に見極める眼力が国民に求められる時はない。