紫式部の生家:平安時代の風景と現在の廬山寺

京都には、御所、平安神宮、金閣寺など名所旧跡をはじめ、嵐山など美しい自然、祇園や錦市場のような楽しい盛り場などあらゆるタイプの観光スポットがあって、日本だけでなく世界的にも人気沸騰の観光地になりました。

応仁の乱や幕末の大火で、古い建築は失われていますが、ここが歴史や文学に出てくるあの場所だというスポットが町中にあって、地名や地形から想いをはせることが可能です。

『源氏物語』の舞台も、西陣の工場街、上京のビジネス街、京都御苑などの下に埋もれてはいますが、京都の町並みは豊臣秀吉の時代に再整備されて、平安京が創建されたときからの碁盤の目の構造を保っていますから、探り当てることが容易なのです。

そこで、このほど、『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)という新刊を本日、発売することになりました。

本書の狙いは、紫式部や北政所寧々さんになったつもりで、京都人も知らないようなディープな歴史探訪にお誘いし、あわせグルメ情報なども丁寧に提供しようというものです。

できるだけ、実用的に、本書だけポケットに入れて、あとは、スマホのGoogleの地図でも補助に使ってもらえば、迷わず現地に行けるように工夫してあります。

紫式部については、彼女自身や藤原道長が生きた世界と、『源氏物語』に出てくるスポットと両方を紹介していますので、大河ドラマをより楽しめるはずです。

巻末に光源氏、紫式部、藤原道長の一時間ほどで読める伝記を添えました。とても分かりやすく書いたつもりですから、こちらの方から先に読まれると、本書の内容が容易に理解出来ると思います。

この本を材料にした記事をときおり書きますが、本日は紫式部の生家についてお話ししたいと思います。

廬山寺という紫式部ゆかりの天台宗寺院が寺町通りの梨木神社の東側にあります。比叡山が美しき見えることでも知られています。明治の頃までは、門前に中川という小川が二条あたりまで流れていました。

廬山寺 源氏庭 Wikipediaより

ここはもともと、醍醐天皇の側近で堤中納言といわれた紫式部の曾祖父藤原兼輔の邸宅があったところで、父である藤原為時も引き継いでここにあったので、紫式部もここで育ちました。

鴨川の堤と平安京西京極大路とにはさまれた瀟洒で住み心地の良い地域だったらしく、のちには、藤原道長も廬山寺の南側に法成寺を建築しました。境内には豊臣秀吉が京都の城壁として建設した御土居の遺構が残っています。

紫式部やその夫の家系は、摂関家と言われる藤原本家一門ではありませんが、醍醐天皇の母を出したことから栄えた良門流といわれる一派で、公家の世界では有力な一派でした。

父の為時は、花山天皇の側近でしたので、敵対していた道長らの系統から冷遇されていましたが、道長に直訴状を書いたのが功を奏して、大逆転で越前守という美味しいポストを獲得して、越前に下ることになって、紫式部も同行しました。

しかし、1年5ヶ月で単身で京都に戻りここに住んで結婚し、宣孝は紫式部の中川の邸宅に通っていたようです。

といっても、廬山寺というお寺と紫式部は関係ありません。この寺はもともと船岡山の南麓にあったのが、豊臣秀吉の時代に京都の寺院をこの寺町通りや表千家や裏千家がある寺ノ内に集めたときに、この場所に移転させられただけです。

ただ、1965年になって、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑がたてられ、源氏庭が整備されました。源氏物語に出てくる朝顔の花はいまの桔梗のことだそうで、紫の桔梗が六月末から九月初め頃まで咲いています。

廬山寺 本堂玄関 Wikipediaより

源氏物語では、第二帖の帚木における「雨夜の品定め」で、源氏と頭中将(葵の上の兄)らが女性談義をして、中級以下の貴族にも魅力的な女性は多いと経験談を話す場面があります。

朝まで議論を交わしたのち、光源氏は葵の上の住む左大臣邸(二条城と堀川通を挟んだ東側)へ向かいましたが、方角が悪いことに気づいて、方違えの宿泊先に左大臣の側近だった紀伊守邸(廬山寺の少し南)へ向かいました。ここで、紀伊守の父の若い妻である空蝉と結ばれました。

その後も光源氏は彼女に執着し、夜這いするのですが、逃げられ、かわりに残された軒端荻(紀伊守の妹)を成り行きから相手にすることになります。

末摘花が住んでいた常陸宮邸も廬山寺の近くです。勘解由小路(下立売通)南富小路東で、京都御苑の南東隅にある富小路広場のあたりです。