『光る君へ』の舞台・土御門殿や紫式部邸のあった場所

京都の花見の季節はかつてない数の外国人観光客を迎え、もはや穴場などないほどとなった。定番の名所を好む日本人と違い、彼らはSNSなどでインスタ映えする場所を探し、そこに怒濤のごとく押し寄せていた。

光る君へ NHKより

一方、日本人観光客については、NHK大河ドラマ『光る君へ』の好評を背景に、紫式部や源氏物語のゆかりの地を探し歩く姿が目立った。

ところが、この歴史の現場を探すというのがなかなか難しい。その理由のひとつは、平安時代と現代とでは、京都の町の場所が微妙にずれていること、もうひとつは、源氏物語の舞台は現実の場所をヒントにしてはいるが、架空のものもあることだ。

それについては私の新刊『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)で地図と共に解き明かしたのだが、ダイヤモンド・オンラインの記事では、とくに、平安京と現代の京都市との違い、藤原道長の正妻である源倫子の屋敷で藤原道長が婿入りした土御門殿、法成寺、紫式部のあばらやなどのあった場所について解説したのでご覧頂きたい。

【光る君へ】紫式部日記や源氏物語の「聖地巡礼」「舞台探し」が意外と難しいワケ ダイヤモンドオンライン

【光る君へ】紫式部日記や源氏物語の「聖地巡礼」「舞台探し」が意外と難しいワケ
京都の花見の季節はかつてない数の外国人観光客を迎え、もはや穴場などないほどとなった。定番の名所を好む日本人と違い、彼らはSNSなどでインスタ映えの良い場所を探し、そこに怒濤のごとく押し寄せてた。

ここでは、そのうちの法成寺について解説する。藤原道長が死んだ場所であり、宇治の平等院は、そのミニチュアだとされている場所だ。

土御門殿と東京極大路(現在の寺町通より少し西にずれている)を挟んで向かい側には法成寺の伽藍があった。鴨沂高校の辺りから河原町通を越して鴨川の堤までで、京都府立医科大学の敷地の南半分を含む。

『栄華物語』などによれば、1019年に出家した道長が無量寿院(阿弥陀堂)を建てたことを始まりとし、金堂・五大堂・西北院・五重塔などが建立され、1022年に寺号を法成寺とした。

阿弥陀堂は西方浄土の方角にあり、前には大きな池があり、9体の阿弥陀如来像が並んでいた。これは浄瑠璃寺の阿弥陀堂と似た風景だったらしい。

道長は、1027年12月4日に死去したが、阿弥陀堂で9体の阿弥陀如来の手と自分の手を糸でつなぎ、浄土へ旅立つことを祈りながら大往生したという。また紫式部が仕えた彰子もここで亡くなった。

法成寺は、1058年に全焼し、再建されたが、鎌倉時代に入ると荒廃し、吉田兼好の『徒然草』には、土御門殿と共に廃虚となっている様子が描かれている。