『光る君へ』を見て嬉しいのは、怨霊とかいったものが、無理のないかたちで扱われていることです。そこで、今回は、私の『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)から、怨霊の都である京都の三大スターである安倍晴明、菅原道真、小野篁(たかむら)の三人の足跡を京都の町で探す旅に招待します。
紫式部の父親である藤原為信が側近だった花山天皇に深く信頼された側近で、NHK大河ドラマでも主要配役のひとつになっている陰陽師・安倍晴明がいます。
天文学を習得し、副産物として数学的素養があったので、財務官僚としても辣腕を発揮し、国司のなかでも美味しいポストである播磨守になりました。
堀川一条の屋敷跡にある晴明神社は近年、大賑わいで、このあたりの堀川通りが晴明神社参道と名乗るほどです。
この晴明神社の場所は清明の旧居の跡だと言われてきましたが、最近の研究では、現在の京都府庁の北側にある京都ブライトンホテルのところのようです。
菅原道真の邸宅は、下京区西洞院六条にあって菅大臣神社になっています。903年に菅原道真が大宰府で没したのち、都で災禍が続き、とくに、御所清涼殿に落雷して公卿に死者が出ました。
そこで、道真は雷神であるとされ、942年に北野の火之御子社に道真を祀れという託宣があちこちに下り、藤原師輔(道長の祖父)によって自邸の建物が寄付され、一条天皇から「北野天満宮天神」とされました。
1587年には有名な北野大茶湯が境内で開かれ、境内を囲むように京都の城壁である「御土居」が築かれ、1607年には豊臣秀頼の寄進により絢爛豪華な権現造の社殿が建立されました。
京都市民は大歓迎し、豊臣家にご利益があるだろうと噂しあったのですが、あまりもの評判が徳川家康を刺激し、かえって豊臣家滅亡の原因のひとつになりました。
北野天満宮の鳥居前交差点は、大内裏の西側の通りである御前通(西大宮大路)の突き当たりで、一条通より200メートルほど北にあたります。
京都は怨霊の都と言われます。怨霊八柱、つまり、早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、吉備真備、藤原広嗣、菅原道真をまとめて祀ってあるのが、同志社大学の北にある上御霊神社で、畠山家の跡目争いから応仁の乱が勃発したのは、この境内でのことです。
大河ドラマでまひろが死者を探して東山の鳥辺野という墓地あたりによく出没していますが、六道珍皇寺も、洛東の五条と四条の間、六波羅密寺の近くにあります。京都ではお盆に先立つ8月7日から10日まで、ここの鐘の音とともに先祖の霊である「おしょらいさん」が現世に戻ってくるとされ、「六道参り」で賑わいます。
この寺は、嵯峨天皇の時代に昼間は朝廷で仕えながら夜は冥府で閻魔様の役人だったといわれた怪人・小野篁が、ここの井戸から冥府と行き来していたと言われます。また篁は友人の藤原高藤(醍醐天皇の外祖父で、紫式部の夫である宣孝の曾祖父)にいたずらして朱雀門の前で鬼や妖怪が群れて歩く「百鬼夜行」に出会わせて怖がらせましたが、高藤が急死したときには、閻魔様に頼んで蘇生させました。
大徳寺に近い堀川通の西側に「紫式部墓所」があり、紫式部と小野篁のお墓が隣接して建てられています。室町初期に成立した四辻義成の『河海抄(源氏物語の注釈書)』にも墓の記載があり、根も葉もない話とは言い切れません。
なぜ二人の墓が並んでいるのか不可思議ですが、平安後期の歴史物語『今鏡』には「色恋の作り話で人心を惑わしたため紫式部は地獄に堕とされた」という記述もあります。そこで、小野篁が閻魔大王に頼んで地獄から救ったということなのでしょうか。