忘れられたアメリカ大統領 :フーヴァーの業績の再評価

今年は、ぺリー再来航により日本が開国し日米関係が始まってから170年。その間に起こった様々な出来事の中で最大の不幸は言うまでもなく約4年に及ぶ日米戦争でしたが、そもそもあの戦争がなぜ起こったのか、また、開戦前の米国内はどのような状況だったのかなどについては、いまだに未解明の部分が少なくありません。

そこで、今回は、日頃日本ではあまり話題になることがない一人の米国大統領に焦点を当てて色々考えてみたいと思います。そのことは、温故知新、今後の日米関係を考える上でも無駄ではないと思うからです。

narvikk/iStock

フーヴァーとはどんな人?

米国の西海岸、サンフランシスコの南、シリコンバレーに近いパロアルト市にあるスタンフォード大学は、東海岸のハーバード大学にも匹敵する世界的名門校で、最近は日本からの留学生にも人気が高いようです。

スタンフォード大学フーヴァー塔
Wikipedia

スペイン風の瀟洒な校舎が立ち並ぶ広々としたキャンパスの一角にひときわ高くそびえるタワーの中に「フーヴァー研究所」があります。同大学出身のハーバート・フーヴァー大統領(第31代)が就任前の1919年に創設したもので、正式名称は、「フーヴァー戦争・革命・平和研究所」。現在では世界有数の公共政策シンクタンクとして有名です。

フーヴァー大統領(1874〜1964年)
出典:Wikipedia

若き日のフーヴァーについては、様々な面白い逸話がありますが、その中の一つをまず紹介しておきましょう。

フーヴァーは1874年(日本の明治7年)にアイオワ州で、クエーカー信者の一家に誕生。幼くして両親を亡くし、経済的に苦しい少年時代を送りましたが、努力して1891年スタンフォード大学に第1期生として入学。

同級生には上流階級の子弟が多い中で、野球チームやフットボールチームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を浴びたそうです。また、他の学生に推される形で学生自治会の会計係に選出され、多額の自治会の負債を返済することに成功したとも伝えられます。

パデレフスキーとの逸話

また、ある時、学費を捻出するために、友人とともに、学内で有名音楽家によるコンサートの開催を企画しました。

パデレフスキ(1894年)

目を付けたのは、ポーランド生まれで当時世界的なピアニストとして有名だったパデレフスキー。彼のマネジャーを通じて打診したところ、ギャラとして2000ドルを支払うということで交渉成立。学生二人はパデレフスキーのピアノリサイタル成功のために不眠不休で奔走します。

ところが必死に努力したのに、当日になってもチケットの売り上げが伸びず、収入は1600ドルだけ。大幅な赤字に困った二人は、パデレフスキーに直接会って、謝罪した上で、1600ドル全額とその差額の400ドル小切手を手渡そうとしました。

これに対し、パデレフスキーは「いや、これは受け取れません」と言って、400ドル小切手を破り、1600ドルを返しながら、

「ここから、君たちが既に支払った経費を引いて、残りで学費を支払いなさい。その上でどれだけ残るか知らないが、もしいくらかでも残ったらそれだけ私に送ってください」

これを聞いて、二人の学生が感謝感激したのは言うまでもありません。見ず知らずの学生にこれだけの好意を示したパデレフスキーも大した人物です。

「感謝される必要はありません」

その後、パデレフスキーは、周囲に推されて政界入りし、第一次世界大戦後に発足したポーランド第二共和国の第2代首相(外務大臣兼務)に就任します。当時ポーランドはまだドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にありましたが、国土は戦争で壊滅状態にされ、国内には食料もなく、150万人もの人が餓死寸前の生活を送っていました。

首相となったパデレフスキの下でのポーランド共和国政府の公式写真(1919年)
出典:Wikipedia

彼は自ら米国に渡り、米国政府に緊急食料援助を懇望します。ワシントンで彼は関係者から「ある人が熱心に援助を申し出ています」と聞かされ、その人物に会いに行くと、彼は、その場で援助を確約してくれました。予想以上の多額の援助に感激したパデレフスキーが丁重に感謝すると、彼はそれを遮ってこう言いました。

「いや、首相閣下が私に感謝される必要はありません。お忘れかもしれませんが、私はスタンフォード大学在学中にあなたにリサイタルをお願いした二人の学生の一人です。あの時のご厚意のおかげで無事大学を卒業することができました」

当時フーヴァーは米国の食糧庁長官か商務長官だったと思われますが、二人の間にこのような偶然の、心温まるエピソードがあったことを私はごく最近フーヴァーの経歴を調べていて初めて知りました。なお、パデレフスキーについては、確か小学生か中学生の時、学校の教科書で読んだ記憶がありますが、どんな内容だったかは覚えていません。

大統領就任直後に大恐慌

さて、話を本筋に戻して、フーヴァーはスタンフォード卒業後、オーストラリアの鉱山で鉱山技師として働いたり、中国(当時清)で鉱山の開発に従事。1900年の義和団事件のときは天津租界で1か月もの間包囲され、攻撃を受けています。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っていたそうです。

その後帰国し連邦政府の職員となり、出世し、商務長官を歴任した後、共和党から大統領選に出馬。見事当選しますが、就任直後の1929年秋、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落、歴史的な経済大恐慌に見舞われます。周知のように、この大恐慌は米国のみならず全世界に甚大な影響をもたらしました。

実業界の経験があるだけに、フーヴァーも大統領として懸命に対策を講じ、「フーヴァー・モラトリアム」などの緊急措置を実施しましたが、焼け石に水。経済不況の悪化を止めることができず、彼は史上最悪、無能の大統領との酷評を浴び、次期大統領選挙で惨敗し、失意のうちに退任。

後任ルーズベルトとの違い

代わって颯爽と登場したのが民主党のフランクリン・ルーズベルト(前ニューヨーク州知事)。彼については今さら詳しく説明するまでもなく、大統領就任直後に「ニューディール」と称する大胆な新政策を打ち出し、数年がかりで大恐慌を収束させます。その功績により、前代未聞の4選を果たします(4期目の初めに病死。その後憲法で大統領任期は2期8年までに制限)。

フランクリン・ルーズベルト大統領
出典:Wikipedia

ただ、ルーズベルトのニューディール政策は当時としては革新的な、社会主義経済の要素を取り入れたもので、民間経済にも積極的に介入し、政府の権限を大幅に拡大しました。これがいわゆる「大きな政府」主義で、共和党の「小さな政府」主義に対立するもので、以後両党の基本姿勢の違いとして受け継がれており、現在のトランプ対バイデンの対立にも通じています。

さらに、ルーズベルトの外交政策で決定的に重要なのは、1930年代初めから表面化していた日独伊による「枢軸国」グループと英仏蘭などを中心とする「連合国」グループの対立の中で、後者の側に立ち、真珠湾攻撃をきっかけに国内の厭戦ムードを抑え、対日宣戦布告と同時に、ヨーロッパ戦線に参入するという政治決断を下したことです。

これについては、第2次世界大戦の起源や本質に関わることで、いまだに歴史家の間でも諸説ありますが、ルーズベルトが裏で大きな役割を果たしたことは確か。この点に関しては、本欄第15回(22/01/17)「日本は米英に嵌められた! 日米開戦外交の裏側」で詳述しましたので、ここでは割愛します。

「日米戦争は避けられた」

実は、フーヴァーは大統領退任後書いた回顧録や論文の中で、政敵ルーズベルトについて厳しい評価をしていますが、その一つは、日米戦争はルーズベルトが仕組んだもので、日本を計画的に挑発し、追い詰めて対米戦争を余儀なくさせた。日米はもっと隔意なく話し合っていれば戦争は避けられただろうとはっきり書いています。

さらにもう一つ重要なことは、ルーズベルトは共産主義者のスターリンと手を結び、ソ連を連合国側に引き入れたことです。フーヴァーによれば、スターリンはヒトラーと同じ「ごろつき」で、彼ら二人同士を戦わせておけばよかったという趣旨のことを著書「裏切られた自由」(Freedom Betrayed)で書いています。

つまり、ルーズベルトのこの政策決定が、ソ連を増長させ、戦後の国際政治体制にも重大な影響を及ぼし、「東西冷戦」を招来したわけで、それが21世紀の今日、スターリンの後継者を自認するプーチンのロシアがあちこちでのさばる原因を作ったと言えます。

フーヴァーは親日的だった

他方、もしフーヴァーが大統領に再選されていれば、ルーズベルトの出番はなく、従って、日本をABCD包囲網で囲み、経済制裁で痛みつけ、その結果ドイツに接近させ、米英と戦うこともなかっただろうということです。歴史にifは禁物ですが、戦後79年、先入観抜きで歴史を振り返り、そこから教訓を学ぶという意味で大事な視点だと思います。

なお、戦後フーヴァーはすでに政界を引退していましたが、トルーマン大統領によって被占領国の食糧事情を視察するため、日本やドイツに派遣されました。

日本については「食糧の輸入がなければ、日本国民は生存に必要な数量の食糧を得られないだろう」とし、緊急食糧援助をマッカーサー(連合国軍最高司令官)に進言。その結果米国から大量に援助された物資は、「ガリオア・エロア物資」と呼ばれました。

私たちの世代は小学生時代に、学校給食でその恩恵にあずかった記憶があります。その意味でフーヴァーは日本にとって恩人の一人であったと言えます。

(2024年5月27日付東愛知新聞 令和つれづれ草より転載)