「支援」という名の誤解と曲解を理解するには

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それ、やりたい「支援」になっていませんか?

子どもや女性の貧困に向き合い、支援や寄り添いの在り方を考えます。「支援」の主人公は、助けてほしいと声を上げた人のことです。

子どもと女性のくらしと貧困」(中塚久美子 著)かもがわ出版

傷つく支援にNO!

「可哀想だから支援する」「自分がやりたいサポートをしたい」。こうした「支援」のあり方は好ましくありません。これは「傷つく支援」だと著書では解説されています。

「例えば、『3人の子どもに使ったチャイルドシートやバギーを捨てるんですけど、いりませんか?』といった電話が入る。『新品、もしくはきれいなものしか受け付けません』ときっぱり断る。『押し入れを整理したら出てきました。古いですが使っていません。よかったらお使いください』と手紙が入った段ボールが届く』(著書より)

「実際、かびたもの、ホコリだらけのもの、封のあいたオムツなどが送られてくる。『もったいないと思うならご自分でお使いください。心を傷つけるようなものは送らないで。』SNSやサポーター通信で徹底的にあらがう」(同)

東日本大震災で東北から関西へ移ってきた母親から聞かされた話が忘れられないと言います。なかなかショッキングな一言です。

「『あなた可哀想に見えない、と言われたんです』。被災者を支援するNPO法人からパソコンの支援を受けた高校生が、箱を開けたとたん、がっかりした顔になったこともあった。シールがべたべたに貼られた中古パソコンが入っていた。その母親は『タダなんだから文句言うな』という圧力を感じたという」(著書より)

「震災に限らず、犯罪被害者や貧困に苦しむ人が、笑みをこぼしたり、清潔感ある格好をすると、他者が一方的に思い描いている被害者像、貧困像に当てはまらないという理由で、尊厳を傷つける言葉や態度を示されることがある。しかし、ママたちは立場の弱さから、我慢して言わない。以来、いい物、きれいな物、可愛い物を送るのが方針になった」(同)

障害者の社会参加とは

今回紹介した一冊は、子どもと女性のくらしと貧困にフォーカスしています。当事者の視点で書かれており多面的な視点も評価できます。私は、社会支援活動(障害者支援)を約40年間続けています。当時の記憶が蘇りましたので、同活動の取組み等を紹介しまとめとします。

1972年に米国ペンシルバニア州裁判所は「障害の如何を問わず、すべての子供はその能力に応じて教育を受ける権利を有する」(PARC判決)を宣言しています。これは、差別的な教育に対する是正を求めたものであり、教育のダンピングを招く危険性があることへの警告です。国民の6%が何らかの障害を有しているとされるなか障害者政策は喫緊の課題といえます。

心身に障害をもつ人が社会参加を果たすためには、さまざまな「壁」があります。物理的な壁や制度上の壁は、政治や行政の努力で取り除くことができます。しかし偏見や差別など、社会に根付いている「心の壁」を取り除くためには、社会福祉の概念を根本的に見直す必要性があり、それは社会を変革するという時間のかかる課題です。

障害を持つ人たちが社会構成員の一員として、社会の恩恵を等しく受けることができるノーマライゼーションを実現するには、社会福祉や社会のあり方の概念を変革する途方も無い作業が必要になります。そこに生きる人の心が貧しい社会であっては、ノーマライゼーションを創造し実現することはできません。

真のノーマライゼーションを目指して

ノーマライゼーションは、デンマークのバンクミケルセン(1919~1990)によって提唱された概念です。「障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿(あるべき姿)である」としています。

なお、筆者は表記について「障害者」を使用し、「障がい者」は使用しません。過去に、多くの障害者が権利を侵害されてきた歴史が存在します。それらの歴史について、言葉を平仮名にすることで本質が分かりにくくなる危険性があるため「障がい者」を使用しません。

正しい見識を身につけることで正しい理解が広まります。これは、たびたびニュースで話題になるような、障害者の問題とは「障害」を「しょうがい」と表記を変えれば解決するような問題ではないのです。

同様に、「子どもと女性のくらしと貧困」についても、「気の毒」「可哀想」という視点が無くならない限り、正しい理解が浸透することはありません。これは「社会的障害」といえるでしょう。今回の著書を通じて、意義ある活動が世の中に広まることを祈念します。

尾藤 克之(コラムニスト・著述家)

2年振りに22冊目の本を出版しました。

読書を自分の武器にする技術」(WAVE出版)