「浜田弥兵衛事件」の顛末:400年前に日本が台湾を領有したかも知れない話①

5月の拙稿「頼清徳の総統就任を機に『台湾400年史』を振り返る」で次のように書いた。本稿はその「浜田弥兵衛事件」の顛末である。

頼清徳の総統就任を機に「台湾400年史」を振り返る
民進党の頼清徳が5月20日、第16期中華民国総統に就任した。就任式には世界中の民主主義国から新しい正副総統を祝福する代表団が多数駆け付けた。 白眉は前米国務長官のポンペオが、「米国は戦略における曖昧政策を終え、戦略上の必要性と道徳に基...

台湾の英語名『Formosa』は、大航海時代にこの島を見つけたポルトガル船員が『Ila Formosa(美麗島)』と叫んだことに由来する。台湾が西洋の歴史に登場するのは1624年にオランダ東インド会社が台湾を統治してからのことで、この頃『浜田弥兵衛事件』(タイオワン事件)と呼ばれる日蘭対立事件があった。この時に幕府がもう少し強硬に出ていたら、日本が台湾を統治していた可能性もあった。

参考文献として『十七世紀日蘭交渉史』(天理大学出版部1956年刊)、『バタヴィア城日誌1-3』(平凡社東洋文庫1970年刊)、『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫2017年刊)、『倭寇-海の歴史』(講談社学術文庫2012年刊)を用いた。また、台湾政府文化部が後援して2月24-25日に演じられたオランダ統治期をモチーフにした野外ミュージカル『1624』も参考にした。

大航海時代と東インド会社

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本格的な大航海時代は、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(1469年?-1524年)が、1498年にアフリカ最南端の喜望峰を回ってインドのカリカットに到着したこと、そして20年余り後に同じポルトガルのマゼラン(1480年-1521年)が、南米大陸南端の海峡を抜けてフィリピンに到達したことをもって嚆矢とする。

それらはまた、従前のインド⇒ヴェネチアという複雑な貿易ルートを、単純なインド⇒リスボンの海路ルートに変え、百年経たぬうちに北西欧州各国が「東インド会社」を設立する契機となった。

ガマの帆船二隻がインドから持ち帰った宝石や香辛料の収益は、2年間の航海費用を賄ってなお大きな収益をもたらした。リスボンにいたフィレンツェ商人は「これでヴェネチア人は、東方貿易を辞めて漁師をやらなければならなくなるだろう」と故郷への手紙に記した。大量の物産をインドから直接欧州に輸送することによる様々なメリットを予見していたのである。

実際、ガマ以前の東インドの香辛料は、一旦インドのカリカットに集められた後、ペルシャ湾・紅海(船)⇒シリア・エジプト(陸路)⇒地中海(船)⇒ヴェネチア(陸路)⇒欧州各地という迂遠な交易ルートを辿っていたために、幾多の業者の介在、荷の積み替えや関税などに加えて、これらをヴェネチア商人が独占していたことで当然高価になっていた。

アルブケルケ麾下のポルトガル艦隊(事実上は海賊)は、1503年から1515年までにインド洋海域のソファラとモザンビーク(東アフリカ)、ホルムズ(ペルシャ湾)、ゴア(インド)、マラッカ(マレー半島)を次々と襲撃し、アデン(紅海)とディウ(北西インド)を除く主要な港町をポルトガルの支配下に組み入れた。が、彼らが独占したのは香辛料貿易だけで、多様な敵を相手にした雑多な物産全ての独占まではできなかった。

これら物産には、東インドの香辛料(⇒中国・西アジア・欧州)の他にも、南北アメリカ大陸の銀(⇒中国・インド・欧州)、中国の茶・生糸・絹・陶器(⇒東南アジア・西アジア・日本・欧州)、インドの綿織物(⇒アジア・アフリカ)、アフリカの奴隷(⇒新大陸)、日本の銀(⇒中国)などがあり、日本は銀と引き換えに中国の生糸や東南アジアの染料・香木、台湾の鹿皮などを輸入していた。

こうした交易に関わった「東インド会社」は、1601年(以下、断りない限り1600年代)の英国と翌年のオランダを皮切りに、17世紀半ばからフランス、デンマーク、スウェーデン、オーストリアが設立した。ポルトガルも短期間(28-32年)置いたが、1581年にスペイン王フェリペ2世が断絶したポルトガル王を兼ねて事実上スペインに併合されたため、漸次勢いを失った。

そのスペイン・ハプスブルグ家の支配下にあったオランダ人は、16世紀前半の宗教改革の影響を受けた新教徒だったことから、カトリックを強要するスペインに反発し、48年に独立が認められるまで抵抗を続けた。アムステルダムやロッテルダムなどの港町には、この戦いによってイベリア半島の港への出入りを禁じられた大勢の船乗りや漁業者、海運業者らがいた。

1595年にポルトガル船に乗り込んでアジアを見聞してきたリンスホーヘンが『葡萄牙人の東洋航海記』をアムステルダムで出版したことも、ポルトガル船に乗っていたオランダ人たちの東洋熱を刺激した。そこへ、オランダに流入したベルギー・アントワープの新教徒(裕福な商人、金融業者、手工業者ら)が加わり、独自に大型船を建造・艤装して東インドを目指すこととなった。

02年に誕生したオランダ東インド会社(以下、VOC)はアムステルダム、ロッテルダム、ミッデルブルグなどを拠点に従前から東方貿易を行っていた6社の合併会社である。オランダ政府から喜望峰周りの貿易を独占する特許状が与えられ、議会からも東インドで要塞を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、現地の支配者と条約を結ぶ権利が与えられた。つまり、ミニ・オランダを東インド各地に出現させようとしたのである。

VOCは09年に平戸オランダ商館を開設、その10年後には第4代VOCバタビア総督クーン(在任19-23年、27-29年)がジャカルタ築いたバタビア要塞に吏員や軍隊を配してアジアの本拠地とした。以降VOCは、台湾、ベトナム、タイ、カンボジア、バタニ、マラッカ、ビルマ、インド、ペルシャ、アラビアなどの各地に商館を設け、商船を派遣して貿易を拡大させた。

日本の外国貿易とオランダ商館

徳川幕府以前の外国との交易に目を転ずれば、一つは16世紀前半から日本の銀と明の絹を交換した勘合貿易、他は倭寇だった。倭寇とは13世紀から16世紀にかけて東シナ海から南シナ海の朝鮮と中国沿岸で略奪を行った海賊で、15世紀初めまでの前期倭寇とそれ以降の後期倭寇がある。前期こそ日本人中心だったが、後期は中国人や朝鮮人に加え、インド洋海域でもまさに海賊だったポルトガル人も混じって、台湾西海岸一帯を根城に活動した。

幕府は、明の「海禁策」(倭寇対策)などのため16世紀半ばに途絶えた勘合貿易やその後の南蛮貿易に代えて、04年から東南アジアを相手とする朱印船貿易を開始した。朱印船は、35年の「第3次鎖国令」(外国船入港を長崎に限り、日本人の渡航や帰国も禁じた)までの30余年間に、交趾・安南、暹羅(タイ)、呂宋・高砂などに350隻余りが送り出された。

39年の「第5次鎖国令」で、ポルトガル船の入港も禁止し(スペインとは24年に断絶)、オランダにのみ出島での商館運営(41年に平戸から移転)を許した背景には、カトリックの男子修道会「イエズス会」の布教姿勢への強い警戒があった。加えて英蘭両国がマカオを拠点とするポルトガル船の暴挙を幕府に伝えていたこともある。

我が国初の商館が平戸に設けられた経緯はこうだ。

スペインは08年、現状維持を条件とした12年間の休戦条約案をVOCハーグに届けた。VOC重役会(17人会)は即刻、南洋のフェルフーフェン司令官に各地との交易開始を命じ、2隻が翌09年に平戸に寄港した。00年4月に漂着した「リーフデ」以来のオランダ船だった。年来のウィリアム・アダムスらとの関係や朱印船貿易のこともあり、家康はVOCと平戸城主松浦隆信に朱印状を与えた。隆信はオランダ商館を09年8月に開設し、スペックス(29-32年バタビア総督)が初代館長となったのである。

朱印状は13年6月に平戸に入港した英国東インド会社の船にも与えられ、8月にコックスが商館を設けたことはVOCの脅威となった。16年に幕府が交易を長崎と平戸に限るに及び英蘭西葡の競争は激化する。19年7月、英国王の提案で英蘭は同盟を結び、20隻の艦隊を編成して西葡の植民地を襲い、海上でもマカオやマニラの敵艦船を襲撃した。が、英国は24年1月、貿易不振を理由に平戸商館を畳んだ。

タイオワンのVOC政庁

この頃、マニラのスペイン政庁はメキシコや明からの船が英蘭に襲われる事態に対処すべく、台湾に拠点を設けることを本国に建議した。バタビア総督クーンは21年12月頃、マラッカに渡航したマニラ船を捕獲した際これを知り、先んじて台湾を占拠せよとライエルセン司令官に命じた。が、「フォルモサ南角は城を建築し居住地を定むるに便ならず、我が大船はいずれの港にも入ることを得ず」、評議会は22年8月、澎湖島への築城を決定した。

23年9月のライエルセン報告には、「稜塁は4ヵ所とも竣工し、据付砲数は29門」、「中国人捕虜も動員し、1ヵ月で完工予定だった工事は、澎湖名物の強風ため遅れた」とある。彼は先立つ23年1月、厦門城内で高官と面談し、「遠国より来たりて我国民と貿易を求めるが故、中国の統治外に適地を見付けるまで澎湖に留まることを許され、水先案内を貸す約束を得」ていた。

ところが23年11月にライエルセンの代理で厦門官憲と接触していたフランクスの一行が、タイオワン貿易に関する仮協定成立の招宴に応じた厦門で捕虜にされた。これ以降、中国官憲は澎湖島からオランダ人を駆逐すべく、頻繁に派兵した。24年8月にライエルセンの後任ソンク司令官が澎湖島に着いた時には、中国兵4千人(後に1万に増員)と兵船250隻がいた。

タイオワン(台南安平沖の小島。以降は台南を指す)にはライエルセンが築いた小塁(ゼーランジャ城の前身)があるが、そこと合わせてもオランダ人は900人に満たない。ソンクは敵将と交渉しつつ「澎湖島を去ってタイオワンに移る」ことを評議会に諮り、了承を得た。これより前の24年1月、バタビア総督は中国の使者2名の訪問を受け、「もしも澎湖島を棄て、タイオワンに定住するならば、同所が中国の領域外に在る限り、中国人はマニラに向かわず、同所にて貿易を行う」との陳述を受けていた。

斯くてタイオワンに拠点を定めたバタビアは、24年8月から対外貿易の拠点たるゼーランジャ城の整備に取り掛かり、翌年には近郊の新港社(平埔族シラヤ族の集落)から譲り受けた土地に事務所・宿舎・倉庫としてプロビンシャ城の構築にも着手し、貿易拠点としてのタイオワンの役割や同地の肥沃な土地や物産にも着目した。その矢先に「浜田弥兵衛事件」は起きた。

 (その②に続く)