ひとはなぜ成熟をしないのか

お知らせが遅くなりましたが、いま売っている『潮』7月号に、岩間陽子さん・開沼博さん・東畑開人さんとの読書座談会の活字版が載っています(佐々木俊尚さんもメンバーで、今回は欠席)。

以前、2023年11月号に掲載されたオルテガ『大衆の反逆』をめぐる座談会と同じく、現在を読み解くことに益する往年の名著を読んでゆく内容で、今回のテキストはアインシュタインとフロイトの往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか』。国際連盟の依頼に応えて、1932年に交わされました。

初出時の時代背景と現在とを対照しつつ、たとえば同書を提案してくれた臨床心理士の東畑さんとは、こんな議論をしたりしています。

東畑 フロイトは、超自我や規範が大事だと思う一方で自我も認めている。つまり「~してはいけない」と「~したい」のあいだで葛藤している状態が大人だと考えているんです。確かに、人は超自我に同一化して絶対的な正義を掲げると、非常に苛烈になってしまいますからね。

與那覇 後のドイツでいうと「アイヒマン問題」ですね。ヒトラーの命令が超自我となり、ホロコーストに疑問を持たなかった。

81頁(強調は引用者)

大人とは(社会にも、また本人の中にもある)複数の立場を広く見極め、それらのあいだで落としどころを探り、苦しみながらも妥協点を見出してゆく存在である。そうした成熟観は、フロイトや精神分析の書物を紐解かずとも、かつては自明のものでした。

しかし先日、精神科医の尾久守侑さんとの対談でも話題になったように、いまはそうした成熟に価値が置かれない時代なんですよね。

自分のポジションを最初からひとつに決め打ちし、違う立場の相手を「それってあなたの感想ですよね〜w(僕の意見は「正解」ですけど)」と嗤う態度の方がウケる。それって子供っぽいよねとは、見る人もわかっているのだけど、なぜかそっちに惹かれてしまう。

そうなる理由がどうしてもわからなかったのですが、たまたま同時に届いた『群像』7月号の、福嶋亮大さんのエッセイ「量子化する〈戦後〉の認識」に、ヒントになることが書いてありました。

1994年にノーベル文学賞を受賞した際の、大江健三郎の有名なスピーチ「あいまいな日本の私」を評していわく――

彼の言う「あいまいな」とは、vague(ぼんやりした、漠然とした)ではなくambiguousに相当する。いわば左眼で平和が、右眼で暴力が同時に見えてしまうところに、大江の「あいまいさ」、つまり戦後文学譲りの二重意識の核心があった。

193頁

簡単には答えが出せない問題だからこそ、本人の立ち位置があいまいになるのがambiguousなんですが、それを単にvagueとしか感じない人が増えている。そうした人は、苦吟しながら言葉を濁す識者を「ぼんやりした= vagueなやつ」としか見ないので、なんでも葛藤せずに断言してくれる人の方が「カッケー!」と映る。

ただこのとき、全部がvagueにしか見えない読者や視聴者は単に「バカ」だと断じてしまうと、これまた単純さが過ぎちゃいますよね。

ambiguousに物事を捉えるには、少なくとも「何と何が」いまぶつかり合っているのか? がわかるくらいには、クリアな解像度で問題の構図を見せてくれないと困るわけで。

そうした抽象化の作業を回避してばかりだったインテリが、急に「論破ブームはけしからん! 世の中はもっと複雑なんだあぁぁ」みたいに叫び出す例が近日は目出ちますけど、それってvagueの上塗りなんですな(笑)。

一切の抽象化をサボってどうでもいいようなファクトばかりを「ジッショー!」するだけの学問が(もちろんこの学問なんですが)、いわゆる反知性主義の勃興に対して無力だった理由も、そう捉えることで見えてきます。

2011年の3.11 以降を扱う『平成史』の第三部を「成熟は受苦のかなたに」と銘打ったように、成熟という価値の回復が自分のテーマなのですが、今回は大事なヒントをもらったように思っています。多くの方の目に留まるなら幸いです!

P.S.
福嶋亮大さんが大江の文学をambiguousの例とするのに対し、逆に単なるvagueだと見なすのは宮崎駿の『君たちはどう生きるか』なんですが、これはちょっと点が辛すぎる気がしますね。

自分は同作における「父親か、大伯父か」の対立は、日本の近代史を踏まえたambiguousな表現だったと思います。詳しくはこちらへの寄稿にて。


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年6月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。