社会科学も「オープンレター」の後を追うのだろうか

Amazonより

「オープンレター」が再来する気配がある。

このnoteの記事は、おおむね論壇サイトの「アゴラ」にも載せてもらっており、後者で読む人の方がおそらく多い。ところが、国際政治学者の東野篤子氏をめぐる先日の記事について、アゴラへの転載版が「Facebookでシェアできない」事態が生じているそうだ。

学者はネットの誹謗中傷を、どこまで「刑事告訴」すべきか|Yonaha Jun
この問題にはあまり関わりたくなかったが、元大学教員としてさすがに看過しかねるので手短に。 ウクライナ戦争の「専門家」として活躍する東野篤子氏(筑波大学教授)を、茨城県警本部の警部が誹謗中傷していた事件が話題になっている。Twitter(X)で容姿を侮辱する下品なもので、この警部の行いを擁護する人は誰もいない。 一方...

アゴラとしても、Facebookに異議申し立てはしているようだが、なにせ相手がメガプラットフォームでは、丁寧な対応は望みがたい(なのでこの件で、アゴラの運営を責める行為は遠慮されたい)。

アゴラへの他の私の転載は大丈夫なのに、特定の一記事だけがシェアを拒否されるのは奇妙である。結果として、なにがしかの集団的な圧力でFacebookにクレームを入れた者がいるのでは、との推測が広まっている。だとすれば、見えざるネットリンチであろう。

これは既視感のある光景だ。よく誤解されるが、2021年の11月にいわゆる「オープンレター」の批判を(まさにアゴラで)始めた際、私としては13回を超す長期連載で、相手を再起不能に追い込むつもりはなかった。むしろ、最初の2回分を載せた後は様子を見て、先方が適切な反省を示すならそれでよしとすることを考えていた。

ところが間を置かずに、長文で私を中傷する野次馬(「豚の嘶き」で有名な方)が現われたばかりか、当事者が事実を隠蔽し「嘘」をついて私を貶め始めたので、ファクトを提示して「論破」せざるを得なくなったのである。忘れている人が多いが、私は本来「実証的」な歴史学者だったので、実に歴史学は有用な学問だと、このとき認識を新たにした次第である。

北村紗衣氏の「指摘」に応える:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑥
とくに英文学に詳しくなくとも知る人の多い、「吠えなかった犬」というシャーロック・ホームズの挿話がある(白銀号事件)。番犬が不審者を見かけて吠えたことではなく、むしろ問題の夜には吠えなかったことを手がかりとして、探偵が事件の真相を見抜...
SNS言論人の典型北村紗衣氏を論ず:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑦
警告:本稿の題名は連載第5回と同じく、北村氏と同様に英文学者で批評家だった福田恆存の著名な論考に倣ったものである。教養ある北村氏は当然ご存じのことと思うから、彼女のファンは「タイトルが失礼だ」などと無知なコメントを拡散して、多忙な「...

自分の被害者性のみを訴え、他人(たとえば私)への自らの加害行為には頬かむりしていたこの当事者氏は、以降、少なくとも私を直接に攻撃する振る舞いは控えるようになった。そのことは、当人が他の批判者に対して起こした訴訟の内容からも確認できる。暗黙裡には、私の批判を受け入れたと言えるわけで、それは一定の誠実さだと評価できる。

ところが問題は、論争した本人が(内心では)非を認めていることが明らかにもかかわらず、あたかもそれをなかったかのようにして、党派性とポジション・トークで「援軍」に馳せ参じる面々の存在だ。先の問題で言えば、そうした人たちは「オープンレターズ」と呼ばれ、いまや常に罵倒語としてしか使われないほど、ネットで嗤われる晒し者になっている。

今回も私の記事をきっかけに、東野篤子氏を取り巻いてちょうど相似形の構図が出てきたと、指摘する声が上がっているようだ。

Facebook(Meta)の検閲は「西側の正義」の限界を示すものかもしれない。
拙著のあとがきも参照

オープンレターには1300人超が署名し、中には論壇等で活躍する著名な大学教員のほかに、出版社の編集者も多かった。フリーの物書きの自分がそれを批判した場合、書く媒体を提供しないといった「いじめ」に遭うリスクはもちろんあった。

しかし、権力勾配のある「1対1300」の喧嘩でも、私は勝った。いま、同様の署名を募って何人が集まるのかは知らないが、たとえ1対13000になろうが私は怖くない。先方が開戦を望むなら、今度も徹底的にやる。

ここから後は(むろん普通の読者の方も読んでくださるとありがたいのだが)、特に「向こう側」にいる人たちを想定して、書いておこうと思う。

問題の焦点である東野篤子氏と私は面識がなく、したがって個人的な遺恨もない。いったいなんでこの問題に絡んでくるんだ、こっちはあなた(與那覇)の悪口など言ったことがなく、むしろ褒めたことすらあったじゃないか、と不審に思われている方は、相応の数いるだろう。

だが、公と私の両面で、そうせざるを得ない理由がある。

遠からずこのnoteで書く日も来ると思うが、大学の准教授として勤めていた際に私が被ったハラスメントは、多大なものがあった。以前『知性は死なない』(2018年)に記したのは、そのごく一部に過ぎない。

なぜ書かなかったか? 大学や学者というものの、権威や信頼を守るためだ。同書を書いた際には、まだ私はそれらを信じていたから、個人的に体験したあまりに醜悪な事例が戯画化されて、「学者なんて全員あんなもの」といった偏見が生まれるのは避けたかった。

だが2020年の新型コロナウイルス禍以降、眼前の問題の「専門家」を笠に着て傲慢に振る舞う学者や、彼らを盲信して異見の持ち主を攻撃する視聴者の群れが、社会を壊してゆくのを目の当たりにして、かつての自分の選択をまちがいだと感じるようになった。

「専門家の時代」の終焉|Yonaha Jun
いま連載を持っているので、送っていただいている『文藝春秋』の4月号が届いた。すでに各所で話題だが、「コロナワクチン後遺症の真実」として、福島雅典氏(京大名誉教授)の論考が載っているのが目につく。タイトルが表紙にも刷られているので、今号の「目玉」という扱いだ。 お世話になっているから持ち上げるわけではないが、『文藝春秋...

経験に基づき断言できるが、周囲にハラスメントをしかける学者には共通点がある。意外かもしれないが、それは「地位や権限」とは関係しない。非常勤が常勤にハラスメントをする例はふつうにあるし、もちろん業績の多寡や、男女の別も関係がない。

ハラスメントをするのは常に、「裏表のある人間」だ。教室で学生に教える内容と、教授会で同僚に喋ることの乖離が大きい人は、気に入らない相手を潰したいと思ったら、文字どおりなんでもやる。

平気な顔で言うことを変えるのも、そうした人の特徴だ。教授会で学生を裏切って気にもしない学者は、「過去の自分」の発言を「今の自分」が裏切ることにも痛みを感じない。だから言い逃げにも躊躇しない。

さてここで、マスメディアでは自由とか民主主義とか人権とか、さも美しいことを語りながら、SNSでは一切の異論を認めず、取り巻きを煽って批判者を潰して回る人物がいたとしよう。上記の理由によって、そうした人であれば、時勢に応じてウケることばかりを発言し、主張の内容がコロコロ変わっても驚くにはあたらないだろう。

それでも「専門家」の三文字さえ一度メディアで獲得すれば、なんでもやりたい放題ができる。単に本人が好き勝手するだけではなく、世の中を特定の方向に誘導することさえできる(かもしれない)。

そうした学者と社会の関係が、まともだろうか。私は、そう思わない。

自然科学者への信頼は、2020年からのコロナで、人文学者のそれは、21年からのキャンセルカルチャーによって、惨めなほど失墜した。22年に始まっていまも終わらないウクライナ戦争は、日本で社会科学を凋落させる契機だったと、同様に将来振り返られるのかもしれない。

個人的にはそうならないでほしいと思うが、本当の勝負は「いかに開戦を避けるか」にしかなかったというのが、いまや誰もが納得するウクライナ戦争の教訓だろう。一度始まったら誰ひとり得をしなくても、行くところまで行くしかない物事というものは、ある。

かつて圧倒的多数のSNSユーザーが自明視していた「自粛」にも、「ワクチン」にも、「キャンセル」にも私は勝ってきたから、今回も言論だけで勝つつもりだが、もし先方が不公正な小細工で発言自体を妨害しようとするなら、そのときはいかなる手段でもとる。

誰にでも、自分の人生をかけて譲れない意地がある。

私が論客として「大物」かはともかく、間にひとりでも挟めば、開戦後に敵手となる全員と繋がるくらいの業界人であるのは事実だ。

もし学者と学問の信頼を回復するために、回避に向けて話しあう意思のある方がいるなら、誰を経由してでもかまわないから、連絡してきてほしい。なによりも「本当の被害者」が救済されることが第一だから、そのためになら和解と合意に向けて、尽くす用意はある。

東野氏が属する筑波大学に抗議中の
羽藤由美氏のTwitterより


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年6月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。