神戸旧居留地建築散歩①

6月1日、神戸で建築を見て歩くイベントに参加しました。

昼ごはんはここで食べて午後からスタート。

やってきたのは旧居留地と呼ばれる地区。神戸の中華街・南京町の東側、大丸本店を中心にしたエリア一帯がそう呼ばれています。

「神戸旧居留地」HPより。

旧居留地は鎖国を終えた日本が外国との玄関口として1868年に神戸を開港したのちに外国人が居留する場所として整備されました。当時この周辺で栄えていた港はここより西の兵庫でしたが、争いを避けるために当時まだ人のいない場所だったこの地を選んで開港しています。東の神奈川と横浜の関係に似ていますね。

開港当時は諸外国に管理され、外国人専用の居留地でしたが1899年に管理権が日本に返還されると日本人も居住を開始しました。第一次世界大戦のころに造船が活況を見せたことや、関東大震災で使えなくなった横浜港の代わりに神戸港が生糸などの輸入の玄関口となったことからこの周辺は大いに発展し、オフィスビルが多く立ち並ぶようになりました。今回見学するのはこの時代に建てられた建築物たちです。

旧居留地38番館

大丸百貨店の東南に建つ「旧居留地38番館」。38番とは居留地当時につけられた区画番号で今もそこかしこにその名残があります。

1929年にシティバンク神戸支店として建築されました。設計は滋賀県近江八幡などで数多くの作品を残したウィリアム・メレル・ヴォーリズと同設計事務所のハインズ。神戸でもこのほかに神戸女学院大学や関西学院大学などの作品を残しています。

他の作品に比べるとやや遊びは少なく、当時の銀行建築で求められていた国際性、信用力を建物に表現したものになっています。外観は古代ギリシャの神殿風で、イオニア式の柱がアクセントになっていますね。両脇の石積みの壁の目地をわざと目立たせるなど、遊びが少ないながらも目をひく建築作品となっているところがさすがたと感じさせます。

あいおいニッセイ同和損保神戸ビル

旧居留地38番館から少しだけ南に歩くと白を基調にした4階建てのビルがあります。これは「あいおいニッセイ同和損保神戸ビル」。同社の前身である神戸火災海上保険が建築しており、現在もこの地で営業を続けています。

1935年の建築で来年築後90年を迎えますが古さを感じさせません。アーチ状の窓と4階部分の窓が均一的に並ぶシンプルなデザインですが、左手の階段室が塔のような役割を果たしてアクセントになっています。4階の上にある装飾のラインが階段室の窓で切られていますが、それだけ塔の部分を強調したかった表れだと思われます。

商船三井神戸ビルディング

海岸通り(国道2号線)まで出てきました。ひっきりなしに車が行き交う大きな通りに面してどっしりと重厚感を漂わせて建つのが商船三井ビルディング。大阪商船神戸支店として、海運業が絶頂期にあった1923年に建築されました。木造建物が多かった当時の日本にあって当時から鉄骨鉄筋コンクリート造で建築されました。関東大震災前の建築としては珍しい例です。

別のアングルから撮影しました。あくまで鉄骨鉄筋コンクリート造であり、石積みで作られたわけではないのですがそんな風には見えません。石積みが最下部にあるように見えることで安定感があって、会社の信頼性が増して見えます。

今回の建築散歩は建築学の先生に案内していただきましたが、先生曰く建築物は人間が着る服のようなもの。どんな服を着ているかで人の印象が変わるように、どんな建物に入居しているかで会社の印象は大きく変わる。高い信用が求められた海運会社はこの建物に入居したことで大きな信用力を得ることとなったのです。この建物を設計した渡辺節氏の出世作品となり、当時はタダが当たり前だった設計業務に価値を見出させ、設計料という概念を生み出させた作品でもあります。

建築当時、海岸通りの向こうは海でした。この建物は海からのやってきた外国人に日本に高い国力があることを印象付けさせました。そういった意味でも非常に意味のある建造物なのです。

築後100年が経ちましたがビルは健在でテナント部分も満室になっているそうです。壊して近代的なビルを建ててより収益を上げることもできる中、内装設備の改装のみで今も建物を残し続けている会社の姿勢に敬服します。

さて、次回は建築や神戸の歴史について造形を深めるためにもう少し海岸通りを歩いてみたいと思います。


編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2024年6月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。